Death Star
01
"・・・人間と昆虫との違いは何か?
種別か、身体的構造か、しかしそれもDNAレベルでは数%の誤差しかない。
・・・人間にしかないもの、それは「個人」だ。
この星のあまねく全ての生物は、これにより人間と否人間に大分されるだろう。
人間はただ漫然と生きているわけではない。なにがしかの理想や信念を持って生きている。
「生」に価値観を与える動物なのだ。
今、この国では「個人」という人間の尊厳が否定され、価値観の統一と強要が謀られている。
極めて一部の特権的存在達によって統制される昆虫社会。それが実体だ。
共同体の名の下に均質化された国民は、多様性を失い、女王蟻に隷属する。
きみは「自分自身」であることをどのように証明できるか?
市民IDはもちろん、その顔も、名前も、与えられたものだ。
自ら獲得したものを、或は置き換え不可能なオリジナリティーを確認してみたまえ。
生い立ちも情報にすぎない。とりまく環境が「自分自身」を認定してくれなかったとき、
個人で有り続けることが果して可能だろうか?
価値観の違いなくして個性などありえない。
きみの隣の人間も、またその隣の人間も、ひょっとしたら、きみかもしれないのだ・・・"
02
新東京シティは各区改革のための統廃合がなされ、その体裁は人造人間のようだ。
嘗ては緑が多いと定評のあった杉並区も、
街路樹やセンタースクエアの花壇等
人工的な緑地が大半をしめていて、100年前の杉林なんてもうないのではないかとさえ思う。
阿佐ヶ谷の駅前は整備され、噴水を中心に休憩所が作られている。
バスが旋回し、ハトが飛び回って、巨大なモニタに海外ツアーの広告が映し出されていた。
浅川 流斗(あさがわ りゅうと)は思わず眉をひそめた。
光学というフレーズが流行って、手当たり次第それが頭文字を占領した時代があったが、
今残っているのはこの光学何とかヴィジョンと光学何とかモバイル・・・
片やよりデカく薄くに突き進み、片やより小さくより軽くへ突き進んだ。
世界最大とか最小とか・・・本来の目的を見失って、結果的には技術自慢でしかないような気もする。
最近、嫌な夢を見る。
内容はよく覚えていないが、とにかく気分の悪い夢。
こうした乱立するデジタル広告の影響は少なからずあると思った。
・・・或は「これ」のせいか・・・
流斗は後頭部をさする。
それにしても、正直こののっぺりと整備された駅前は好きになれなかった。
夏には七夕祭りがあり、冬には大きなクリスマスツリーを飾ってジャズコンサートなどを開くのだが、
昔はもっとごちゃごちゃしていて、人間味があって、嬉しいことが起こりそうな胸の高鳴りがあった。
人ものっぺりとしていた。
流行にさといセレブ達は服や髪の毛だけでなく、目鼻や口元、指などの肉体的なパーツにも流行りを説いた。
昔にくらべれば整形も手軽になり、顔やスタイル、声帯まで変えることができる。
だから町中には奇麗な顔が沢山歩いているのだけれど、流斗には誰が誰だか区別がつかない。
それでも原宿や渋谷、六本木に比べればこういったクローン人間みたいなのは少ないほうだった。
03
いつからこうなったのだろうか?
モラルハザードがそっくり平成の時期を指しているとあるジャーナリストは言う。
四半世紀近く続いた社会の荒廃。自殺者と少年犯罪は年々増加し続けていた。
それに歯止めをかけたのが政治だった。
自民党と民主党が連立を組んで、事実上日本はトップ不動の議院内閣式独裁国家と変貌。
推し進められた地域整備は公共力の強化による秩序の形成を指標とし、
道徳心教育、治安維持、管理社会の構築、防衛力強化、農水に代わるハイテク産業の推進などに尽力した。
とりわけ主要都市を中心に改善を図ったため、地方との格差は目を覆うばかりに開ききって、
採算のとれない県は切り捨てられていき、現在は国内の移動でも居住圏を出る際はビザが必要である。
新東京シティではこの現状に憤懣(ふんまん)の声を上げる者は少数だった。
メディアも積極的ではないにしろ、大阪で起きた格差是正を訴えるデモ行進などは報じている。
にもかかわらず流斗たち新東京シティの若者には感心が持たれなかった。
デモは機動隊の投入により鎮圧。騒乱罪や共謀罪など18の罪状によって集会参加者は検挙され、
今は向こうも一様に終熄しているようである。
報道はあまり信用できない。
記者クラブ制度は解体されたにも関わらず、報道規定の変革により新たな談合を生み出してしまう。
体制翼賛会とまでは言わないにしても、天下りと事なかれ主義とが蔓延って、
既に報道組織自体がワイドショーの様相を呈しているのだから。
昔は司法・行政・立法をチェックする第四の権力と呼ばれたはずだが、もう臆面もない。
聞こえて来るのは、デモ集会が反体制テロ組織の温床になるとか、少子化対策のツケが回って来たとか、
補助金を切られた県ではインフラが崩壊し餓死者が出てるなんてものまで。
事実上選挙権が認められない居住圏もある。
外交面では日米同盟は軍産複合体問題を抱え、台湾海峡に中国、ロシア、統一コリアが絡み合って
日本もコラテラルダメージは避けられないだろうとか。国連の信頼を取り戻すための安保理賛成だとか、
そんな感じである。
若者の目は世の中を疑念に満ちた眼差しで眺めていた。
大人達が言っている偉そうなことは、どれも真実みに欠けて聞こえているのだ。
04
JRJラインは国の援助もあり、電車の騒音を抑える新機種を導入。
快適で安全性も向上したが、やはりのっぺり感じた。
中野で降りた流斗はジーンズの上から太ももをかいて駅前を一望する。
30階建てのサンプラザビルは全面にCMを貼付けて文字通り広告塔になっていた。
二階建てコンサート広場は過去に立体駐輪場だったらしい。
ホームレスが一掃された年、自転車も規制され、生活に自転車を使う者は激減した。
今では競輪やサイクリングコース専用の乗り物というイメージがある。
どの駅で降りても見た事のあるフードチェーン、
停留所では"平和憲法を取り戻せ!"というフラッグを抱えたハチマキ姿の男が
警察と押し問答している。
今ではもう珍しい光景だろう。
憲法改正からどのくらい経っただろうか。
少なくとも日本は近代戦をやるような戦争には加わっておらず、核兵器も持っていなかったが、
国際貢献の名の下に、自衛隊は紛争地域への介入を粛々と行っている。
防衛省の発表によれば年間4名の殉職者でとどめているのは日本の誇りなのだそうだ。
正直現内閣はイスラム社会へ突っ込んだ首が抜けなくなって狼狽えているらしいが、
そういうことは国民にあまり伝えられていない。
パブリックスピーカーから聞こえる定期放送では、
淡々とした女性の声で周囲の安全確認をうながしていた。
続けて禁煙指定区域の説明、献血に協力してくれる人は
どこどこまで来て下さいというような案内。
漠としたものが覆っているこの日常では、不安に理由はいらない。
不安を感じていることが不安だった。
・・・国は毅然として理想を語るようになった。
21世紀初頭日本に欠けていた価値観だと言う。
だが、街は何も語らなくなった。
各地域にあった特色が摩滅していき、あらゆるサブカルチャーが淘汰され、
国にとって有益か無益かという二分法により文化はコントロールされていったのだ。
流斗にとって、それはとてものっぺりとした不安なのである。
05
中野駅からブロードウェイアーケードを進む途中左に折れて7〜8分というところだろうか、
環状七号線に差し掛かるいくらか手前、流斗の向かった先に煉瓦作りの風格あるその建物はあった。
地味で、それでいて目を引く。・・・保全物件だろうか?
性善説に支えられていた建築業は偽装工事などによる欠陥住宅を排出し、政府が外科的措置を断行。
アスベスト問題以来の草刈りとなり、昭和期の家屋はほぼ全て建て直されていたが、
神社仏閣はもちろん、東京駅を始め一部に関しては補強工事によりたて壊しを免れていた。
似つかわしくない強化アクリルのドアを潜るとそこには無人のプライバシーシステムが設置されている。
つまり、市民IDの提示を行えということだ。
「あの、ご連絡した浅川です」
”ピピッ ”
IDと言っても何か証明書やカードを出すわけではない。
流斗の後頭部より脊髄にかかる傾斜から情報を発信するのである。
読み取った受信機は小さく電子音を鳴らし、エントランスホールへのドアを開いた。
流斗は後頭部をさすりながら階段を上っていく。
自分の頭の中に記憶装置やら個人情報やらが入っているとわかっていても実感はなかった。
新東京シティが市民IDの更新を行う際にこの情報サポート装置の義務化を決定して14年。
補聴器やピースメーカー等からさらに突き進んだ身体支援装置として支持する都市は少なくなかったが、
同時に人体改造的処置は倫理に反するとして各地で論争も巻き起こした。
公共機構によるデータの共有化とIDの容易な確認、これらの警察力強化政策は犯罪抑止に大いなる成果を上げ、
飲酒運転、訪問詐欺、空き巣や強盗、ひったくりは年々減少している。
また私怨や感情的な殺人事件、レイプ、放火、誘拐、監禁などの犯罪検挙率も右肩上がりで向上して
住民への了解は徐々に広まっていったのである。
最近ではアルツハイマー対策としての研究にも都政が率先して進言し導入されたらしい。
国がキャンペーンを打ってこれを広めた頃、装置を取り付けた者を「メモリスト」と呼称するようになり、
このメモリストに対しては減税や生活支援などの待遇を向上させ、装置取り付け促進に拍車をかけていった。
流斗はメモリストの第三世代と呼ばれるタイプで、
視覚聴覚に傷害を負っても生活できる比較的新機種装填型の市民である。
”がちゃ ”
「あ、失礼します」
流斗は会釈しながら木製の格式高そうなドアを開けて目的の部屋へとようやく来る事ができた。
「おや、可愛いお客さんじゃない♪ ようこそ我那覇事務所へ」
06
この我那覇事務所は昭和の物件のようでいて高度なセキュリティーを完備している
なんだかアンバランスな建物だなと流斗は思った。
2階は八畳間ほどの空間のがあり、オールドファッションなデスクやカーペットやスタンドが
一見無尽蔵に配置されている。応接室とおぼしきパーテーションで囲われた一角には、
偽大理石の机を挟んで革製のソファーが向かい合っていた。
その周りを所々、金属でできた象の置物とかお皿のような時計、
安いものなのか高いのもなのかまるで見当もつかない骨董品が列んでこっちを見ている。
この女性の趣味だろうか。
「はじめまして、私が担当の我那覇 結衣(がなは ゆい)よ。結衣さんって呼んでね☆」
狐のように目の細いお姉さんは無邪気に笑顔を見せた。歳は・・・若く見えるが、幾つなのやら。
「あ、我那覇ってことは、ここの所長さんですか?」
「まぁ〜、そうかな。つーか基本的に私一人だからさ」
「一人ですか・・・でもここ公社なんですよね?」
流斗は紅茶の前のソファーを進められて、ちょっと恐縮しながら腰を下ろす。
「私はね、そもそも探偵になりたかったのよ。でも今の私立探偵なんて雁字搦めでしょう?
だから公務員になりました。この末端市民相談機関うにゃうにゃは、いわば公立探偵みたいんだからね」
うにゃうにゃって何だろう。
「こう見えても私、中野署内にゃ顔が広いんだから。パパのおかげもあるんだけどね」
公務員の税金からの給料は減らされていったが、その分増員もされた。
公務員は新東京シティに限った事ではなく、上層部の人間を除いてメモリストである。
この装置による制限も働いて民間人は軽い国家試験をパスしたら、
養成学校でちょっとした講習と実技訓練のみですぐに現場へ投入された。
役所や教師、警官の質が低下していた「人材育成」という問題は、
科学のサポートによって最短距離の解決が行われたわけだ。
勿論、人権に対して暴力的手法であるとの反発はいまだに冷めていないが。
この結衣という女性も民間事業でスキルを身につけてから警察組織に登用され、
今はここに落ち着いているようだ。
父親が警視総監だという噂も聞いた。でも公務員のプライバシーシステムは民間と違い特権的で
こちらもあまり根掘り葉掘り問えない部分もある。
流斗にとってはそこは、まぁ、たいした問題じゃない。
警察で門前払いされるようなことでもここならばとやって来たのだから。
「そいで何だっけ?」
結衣は身を乗り出してニコニコしている。今にも耳と尻尾とヒゲがぴょこっと出てきそうだ。
07
時計は午前11時の時報を鳴らしていた。
このボ〜ンボ〜ンという振り子時計の音を流斗は初めて耳にしてちょっと落ち着かない。
「ふ〜ん、変な映像を見るねぇ・・・医者へは?」
「いえ」
「聞いた感じ吉祥寺に新設された公民館みたいだなー。あと日付が今日と・・・」
「えぇ・・・」
流斗が落ち着かないのは時報のせいだけではなかった。
この結衣という女性のブラウス、胸元がかなりキワドイ!
谷間を把握できる肌の曲面。ほのかに頬を撫でていく香水の香り。
ふらふらと手を伸ばしてしまいそうなその胸元に、門番のごとくネックレスが睨みをきかす。
後ろに結った栗色の髪と赤いイヤリング、大人びた外見なのに声はアニメ声優みたいで・・・
ミステリアスな魅力を持つ人だなと思う。
「とりあえずネットで画像出してみるから、それ見てよ」
「あ、はい」
結衣は応接から出て腰を振りながら、窓を背にしたデスクの上をノック。
黒く薄いガラスボードが静かに上がって、その表面に白と赤茶のイチマツ模様が表示される。
よく確認すると、その模様が蝶やトカゲの形にメタモルフォーゼしていくのがわかった。
「あぁ、これね、M.C.エッシャーよ。知ってる?」
「いえ、すいません」
「アハハ、なんで謝るかな〜」
結衣の両の指が艶かしくデスク画面の下に映るキーを撫でて、検索を開始した。
流斗はその動きに妙に下半身が反応を初めて、少しづつ前屈みになっていく。
「ん? パソコン珍しい?」
「いえ・・・あ、はい」
コンビニから成人向け雑誌の撤廃が行われ、教育に悪影響を及ぼすとされる108の関連販売物が発禁に指定。
実写の映像には規制がかからなかったが、漫画やアニメ、ゲームは子どもの観賞するものであるとして
アダルトを扱うコンテンツの取り締まりが厳しくなり、アニメやゲームの会社は倒産に追い込まれるか
海外活動へ移譲するかの二者択一を迫られる。健全な道徳社会を取り戻すため「有害認定」が加速した時期。
インターネットも有害の対象になった。
出会い系サイトの紹介メール等いわゆるスパムが、児童も携帯を持つような社会状況に氾濫(はんらん)し、
個人情報の漏洩、匿名による誹謗中傷、自殺者を募るサークル、新型ウィルスとのいたちごっこに
政府は「パソコンも車と同じで、使い方を誤れば凶器となる」としてパソコン使用の免許制を開始する。
ただ公務員だけは免許が自動的について来るようになっていて、結衣もそれを多いに活用していた。
「昔はどこのご家庭も一家に3台パソコンがあったもんよ。今じゃ免許を取得しなきゃやれないし、
ネット税なんてのまで導入されちゃったからねー。中流家庭以下にはどんどん疎遠になってったよねぇ」
画面に映し出されたのは吉祥寺公民館のライブ映像で、非常にクリアである。
「あ! これです!」
流斗は思わず指で画像を指し示した。
「ふーん、やっぱりこれか」
それは公民館の前に設置された石造りのオブジェで、なんとも言えない形をしていた。
確かグレゴリー・ランプツェンとかいう彫刻家がこしらえたもので「秩序と自由の協力」を表現したそうだ。
強いて言うならひらがなの「ぬ」のようで、流斗もやはり「ぬ」みたいな形をしていると結衣に伝えていた。
「うん、どうやら流斗くんの見えた時間に新しい衛星システム発表会があるみたいだね」
「衛星・・・ですか? あの宇宙とかの」
「そう。あとは5階って表示かぁ・・・とりあえずこの時間この場所に行ってみれば何かわかるんじゃない?」
流斗は以前テレビで「未来予知」についての特集を見たことがあった。
そこでは突然行った事もない教室の映像が見えるなんて出来事を放送していて、
それがあまりに鮮明だったのでノートに描き写しておいたその人は、
一年後、留学先の教室でノートとまったく同じ景色を目の当たりにし驚いたのだそうだ。
その教室にどんな意味があったのかわからないが、
世の中ではそんな不思議なことも起こるのだなと他人事のように思っていた。
それが三日くらい前からだ。
流斗の頭の中に三つの画像が突如として見え始める。
一つは「ぬ」のような石のオブジェ。
もう一つは13時10分という黒地に黄色のデジタル文字。
最後はエレベーターの5Fという表記である。
08
真っ赤なガルウィングのスポーツカーなんて、この人は本当に探偵になりたいんだろうか?
特にこういった洋車は、排気ガス制限のフィルター更新やエコシステムの徹底がなされる
新東京シティに凡そ似つかわしくないし、値も張る代物だ。
そんなことで落ち着かないながら、流斗は半ば強引に助手席へ積まれ吉祥寺を目指していた。
「だからね、フランチャイズなんかしたら探偵やれないわけなのよ〜」
黙ってれば運転する姿もなかなか様になってるというのに、結衣はニコニコとおしゃべりしている。
勿体ないなと思いながら「えぇ」とか「はぁ」とか生返事して車中流れ去る外の景色を眺める流斗。
誰に対してもこういう対応をするのだろうか。公務とは思えない。
五日市街道から新設された新東京第三ラインを跨いで武蔵野に入るころ、
カーオーディオから不思議なイントネーションの歌が流れ始めた。日本語だろうか?
「月(つき)ぬ美(かい)しゃって曲よ。面白いでしょ。でも良い曲なんだなこれが」
「沖縄・・・ですか」
「That's Right♪」
流斗はちょっと戸惑ってしまう。結衣の名字を見れば沖縄出身であろうことはなんとなくわかっていた。
しかし沖縄は微妙な地域だ。かつては基地移設で揉めていた国と県民との問題は、ほぼ一方的に解消される。
沖縄在住の日本人はすべて追い出され、現在、事実上沖縄は米軍のコロニーとなってしまったからだ。
複雑な状況なだけに流斗はそれに繋がるような言葉をなるべく避けていたのだが、
むしろ結衣のほうがおかまいなしでいろいろ喋り出してしまうから尚のこと戸惑ってしまう。
「海キレイだよ〜。懐かしいな〜。今じゃ政治家や官僚や海外の要人くらいしか入れないからねぇ〜」
「同じ日本の中にある故郷なのに、戻れないなんて変ですよね」
「まぁ、変かな」
「変です」
流斗は口を尖らせる。
同盟関係はより深く骨がらみになって、日本の国土の二割はアメリカのビップルームになってしまった・・・
少なくとも流斗はそう考えている。これはアメリカでなく日本政府の瑕疵(かし)ではないのか?
「帰郷ったって家族は新東京にいるからね。たまにこうして曲が聴ければいいかなぁなんて、そんなもんよ」
「そんなの、僕は何か寂しいですよ。この国の政治は失敗してると思います」
「おや、なぜに?」
「だって国民が幸せにならないじゃないですか。総理大臣は偉そうなこと言うけど、全部「できる奴」に
向けた演説ですよ。僕みたいな「できない奴」には記憶装置を付けたって変わらないんです」
「何? 何? 若くないよそーゆーの〜」
流斗は今、高校2年に上がって一層に学校が億劫だった。
"国民には責任と義務がある"まず学習過程で最初に叩き込まれるのが「奉仕」の心。
つまり捧げることの美徳であった。
小中校とは家族と自分と社会に対する心構えを支柱として、ボランティアやクラブ活動など通じ
「学校」や「地域」という単位で実技教育される。
挨拶の徹底と目上の人への敬い、郷土を愛する心を育み、歴史から学ぶ本来の日本人らしさ、
そして将来この日本のため自分に何ができるかを作文にし、その作文の授賞式もある。
-------共同参画社会への統一した価値観を決定。
その理(ことわり)を汚す者・・・例えば登校拒否等は一ヶ月続けばその家族に罰則金が課せられる。
また、学校を出ても「価値の統一」は迫られ、30歳を過ぎても独身なら課税対象、
結婚したら二人は子どもを生産しないと、社会的に女性の価値が否定されるような逆行的処遇、
国と社会に対して積極的に貢献してない人間を「自立支援」と称して、
中国やタイに半強制的に労働力派遣させられる場合も少なくない。
いつの間にか学校の周りに無数の日の丸がはためいて、流斗は義務教育を息苦しく送っていた。
でも日の丸は好きだった。
あのシンプルなデザインに愛着を感じていた。
だから余計に世の中が間違っているように思えてならなかった。
09
「今はこんなだけどさ。あと何年かしたらまた変わるよ」
結衣はずいぶんお気楽に答える。
「そうでしょうか? 僕は、日本はもう政権交代なんて起きない気がします」
「何も国の方針を一切合切政府が勝手に決めてるわけじゃないと思うよ。
民主主義に限らず国家というものは国民がいてなりたってるわけだから、
ある程度操作はするとしても基本的に「民意」を汲み取って成ってる。
昔大きく左に振れた針が今度はその反動で右に振れる。
国が強くなると戦争をやるって騒いだ時代の反動みたいに
今度は国が強くならなければ世界に通用しないと騒いだ。
だからまたバランスを取る為に戻って行く・・・みたいなのとかね。
まぁ、ある意味ナショナリスティックかもね〜」
流斗は少々嫌な思い出をよぎらせてため息を一つ。
「国民が極端な方向に振れても国が極端な方向に振れたらだめですよ」
「国民=国ってことの証明で、ま、いいんじゃない?」
「国が間違ったらダメです。取り返しがつかないじゃないですか」
「流斗くんの言う国って政府ってことだよね」
「はい。少なくとも政治家は間違えたらダメだと思います」
「そおねぇ、間違えないなんて不可能だと思うけどね。政治家だってただの人なんだから。
問題はその後どうするかなんじゃない?」
「政治が間違えてもいいんですか?」
「いいって言うか、そもそも正解不正解なんてないって私は思ってるから。
時代がどう進むかなんて時の政権にはわからない。それこそ未来予知でもできなきゃ。
政治ってのは永遠の修正作業だからね。ぶっちゃけアドリブなんだよ、政治って」
流斗は全然釈然としなかった。
「・・・でも、このままじゃ個人とか自分らしさがどんどん否定されていく。
もし振れた針が戻らなかったら・・・それも民意を汲み取った結果なんですか?」
「まぁ、自分らしさなんて正体の掴めないものより型にハメられたほうが楽って人はいると
思うけどね。基本的に個人が全体に埋没したいと主張する例は少数だと思うよ。
主張はね、内心は置いておいて。私なんかが想像するとさ
個性個性って全員が言ってるの見ると逆に個性ないような気ィしちゃうし」
「国はちゃんと個人の多様性を認めるべきです」
赤信号の交差点で止まり首を鳴らしながら結衣は間の抜けた声で答える。
「過去の歴史を振り返ったって、日本が国民に個人を求めたことなんてないよ。
国家にとって国民ってのは、言うならば「統計値」だからね。
そりゃ人間国宝だとか、英雄的活躍をしたとか、そうした人間は個人として扱う場合もあるけど、
それ以外は何に対しても「何%の中の一人」なんだよ。因みにこの発言は公人でなく私人としてね♪」
流斗は結衣が冗談を言っていることに気がつかず難しい顔をしている。
「ほら青少年! つまんない話はやめてさ、面白い話をしようよ。流斗くんは彼女とかいるの?」
10
まるで赤ずきんを騙そうとしている狼のようなオーラを発して結衣が迫る。
「いませんよ、僕はそんなパッとしないですし」
「パッとすると彼女できるんだー。でも今いないだけ・・・ってやつでしょ?」
流斗は首を傾けて考えるポーズ。
「流斗くんって名前もアイドル系だよね。ほら、最近男の子のセクシーグラビアとか多いじゃない?
丁度キミが生まれたくらいの年かな。名前に樹理亜(ジュリア)とか麻鈴(まりん)とか付けるの流行ってね。
与党の人達が「日本人らしさが失われる」とかって発言をことあるごとに繰り返すようになったの。
でも流斗ってカッコイイ響きだよね。正直言えよ、女の子にモテモテなんだろー」
「いえ、そんな」
流斗はとりあえず苦笑してみせた。
てゆーか本当にモテてなかったし。
「まぁ自分じゃ言いにくいよね、その二重まぶたは天然モノ?」
「え、あぁ、はい。整形じゃないですよ」
「最近は親が子どもの顔いじっちゃうなんて話もあるからね。怖いなぁ」
「はい」
「目、ちょっと青いよね」
「カラーコンタクトです」
「へ〜、そんなの流行ってんのね」
「流行ってないですよ。オリジナルです!」
「オリジナル? アッハハハハ♪ そっかぁ」
笑われてムッとくる流斗。
「クラスで誰もやってない、本当です。だからやってるんです」
「いや、いいと思うよ、個性出してて。でも肩に力入り過ぎかな〜。
私が思うにね、この世の中にオリジナルなんてものはないんじゃないかなって。
全ては先駆者が築き上げた文化の影響下で培われたセンスでさ。
それにね、自分らしくってのは自分が一番自然体なものでしょ?
誰もやってないからやるってのは「好き」に対して正直じゃないじゃん。
だったらそれが人真似でもマジョリティーでもいいんだよ。
人と違うことに価値があるんじゃなくて、違う人を認めることに価値があると思うな。
私なんか高校ん時、髪を染めるなスカートの丈を上げるなって
外見的にはひたすら個性を否定されてね。
その型からちょっとでもはみ出した者は「不良」扱いされたもんよ。
でもそれが「不良」だったとは今でも思ってないんだ。
協調性とかルールとかってそこから学ぶものじゃないじゃない?
そーね、「不良」ってのは車でいえばパンクしてるとかエンジンが壊れてるとか
そういうものを指して言うわけでさ、車体の色が違うのは不良じゃないよね」
流斗は結衣の言う事はそのとおりだと思ったが、同時に
例えば髪を染めたりスカートを短くしてる同級生がクラスにいたら、きっと怖いだろうなとも考える。
それが不良ではなく、とても正義感のある優しい人でも、
茶髪を見れば「怖い人」と咄嗟に感じてしまうのだ。
これは植え付けられた偏見ではないか?
社会規範の名の下に意識改革が、既に染み込んでいるのではないか?
ただ、茶髪も短いスカートも個性じゃなく、
学校に定められた尺度と別のベクトルから定められた尺度に乗っているだけで、
カラーコンタクトは、それとは違うのだと、少なくとも流斗本人は自負していた。
11
ドライヴスルーで軽く昼食を済ませた二人は吉祥寺公民館へ足を踏み入れた。
開口一番出て来た言葉は
「ん〜・・・「ぬ」だね〜」
「ですよね」
という何とも言えないやりとり。
「あの、すみません。ここまでしてもらって・・・普通はここ教えてもらって終わりですよね」
「いいのいいの、うちは暇だから。お姉さんについて来なさい青少年!」
結衣は胸を張ってズンズン歩いてしまうので、流斗は彼女のお尻を見ながら自信無さそうについていった。
さすが警視総監の娘か警察力の印籠か、関係者以外制限されている会場なのに呆気なく通ってしまった。
「結衣さんて凄いんですね」
「よく言われるわ♪」
会場屋内にはざっと4〜50人ほどの正装をした人達が詰めかけてステージの前雑談を交わしている。
4階まで中央吹き抜けでステージが見える。広さはキャパ300人程度の映画館といったところか。
会場の壁にはCGで作られた衛星の画像がスポンサーの名前と一緒にメキメキ動いていた。
白いテーブルクロスの敷かれた円卓が規則的に列んで、シャンパンとおつまみが置いてある。
結衣が何の躊躇もなくそこにあったハムサラダを口に運んだので、流斗は思わず
「いいんですか? 勝手に」
とツッコんでみたところ、笑って誤摩化されてしまった。
時計が吹き抜けの内壁、2階の高さに張り付いていた。
大きさは、たぶんタタミ一畳ほどだろうか。
黒地に黄色いデジタル表示。
流斗が見た映像のものに間違いなさそうだ。
時刻は12時59分を示している。
結衣は開催スタッフに5階へのエレベーターを訊ねると、今は設定で5階を停止状態にしているから
4階から階段で上がってくれと伝えられたようだ。
エレベーターに乗って二人きり。
「どう? ここに見覚えは?」
「いえ。来た事も見た事もないと思います。
・・・あの、僕ずっと気になっていたんですけど。
これって未来予知にしちゃ正確すぎますよね・・・。
この映像って、どっかで混線した・・・とか。そういうんじゃないですかね?」
「心当たりが?」
「それはないんですけど・・・なんか」
流斗が後頭部をさするとエレベーターが4階到着のアナウンスをして開扉した。
その瞬間、
流斗の視界に立体映像による宇宙が広がる。
開会セレモニーなのか、その演出はビックリ箱のようで、思わず何も無い空間から身をかわす。
「アハハ、驚いちゃったね流斗くん」
結衣に手を引いて起こしてもらいながら流斗は顔を真っ赤にしていた。
ふとホールが静かになる。
その静けさに今まで拍手が鳴っていたことに気づいた。
「えー、本日はお忙しい中御足労いただきましてまことにありがとうございます。
私、このシステムの説明を勤めさせていただきます、沼屋と申します」
ステージの小宇宙を背景にして紺色に細い縦縞が入ったスーツを着た50代くらいの男が
両腕を開いて客席へ自己紹介する。
「沼屋か。族議員の急先鋒が科学で未来を語るなんて似合わないねぇ」
「ちょ、結衣さん! 聞こえちゃいますよ!」
吹き抜けの4階から下のステージが一望できるが、あまり前に出ると思わぬ所に
影が映りそうなので、二人は暗がりを歩きながら階段へ向かった。
12
5階の鉄扉を体重を乗せながらゆっくり開くと冷気が頬を撫でて行く。
フロアへ足を踏み入れれば、ほこりの臭いが嗅覚を刺激した。
「さて、エレベーターはどこかな〜っと」
結衣が歩き出すと浅いヒールが床を打つ音。
声にも若干エコーがかかって聞こえる。
暗く静かだが、鉄と石とで密閉された空間に起こる独特の地を這うような深い反響音が木霊して
なんだかリドリー・スコットのSF映画を思い出す。
鉄骨で網の目のようなジャングルジムが天井まで伸びて迷路みたいに入り組み、
ダクトや貯水タンクが屹立。真っ白に変色したボロボロのビニールが
そこかしこぶら下がって、奥の壁一面に広がる窓から指す陽の光で無数のラインを刻んでいた。
床の下からくぐもった男の声が響いている。
さっきステージに立っていた沼屋のものだろう。
「・・・そうです。かつて日本は退廃と堕落の道を歩んでいた。
経済は困窮し、学力は低下し、犯罪は増長し、子供は減少を極めた。
なぜでしょうか?
過去の国民達が自由と身勝手を混同したからです。
自由とは、義務を果たす者に与えられる特権であり、
最低限の責任も負わない者に語る資格はない!
ホームレス、ニート、ワーキングプア、いずれも過去の言葉です。
年金未納や堕胎手術に罪悪感を抱かないような非人間的感性を裁いていったこの20年。
日本人としての主体性を、誇りを、我々は必死に説いてきた。
そして、今、ようやくこの東京シティは生まれ変わった。
理想郷にはまだまだ遠いですが、国民の真の自由を守った街です。
我々新生自民党とその友人達が変えました。
今日、ここへお集りの皆様は、自由を語るに相応しい多大な貢献をされた方ばかりです。
だからこそ、誰よりも早く、この街の素晴らしい未来の一遍をお見せしたかった」
沼屋はオーバーアクションで両手を振りかぶるとステージ上に目映い光の粒子が集束されていく。
「御覧下さい! これが新世代ソーラーシステムを搭載した情報衛星、サラマンドラです!」
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荘厳なBGMと共に巨大な衛星の立体映像がホールの上部に出現し、再び拍手が巻き起こった。
「原子力発電に依存する日本は資源を輸入せずとも運用可能は自活的次世代エネルギーの開拓が急務でした。
太陽光をエネルギーに変えるソーラーシステムは従来型の集熱器を改良することで推進してきましたが、
このサラマンドラに搭載されるニュータイプは蓄熱槽を改良することで集熱量を飛躍的に向上させました。
ご家庭での自家発電に普及する日も近いことでしょう。
サラマンドラの打ち上げは、日本のエネルギー問題を希望に満たす門出(かどで)でもあったわけです」
沼屋は衛星のワイヤーフレームによる内部説明の映像に切り替わったタイミングで
ミネラルウォーターを一啜りしてから、解説は徐々にヒートアップして公聴者を飲み込んでいく。
「街から落書きとカラスが消え、クリーンな環境を取り戻し、
無差別に有権者を作った旧時代を洗い流して
正しき人々のための有るべき公共サービスに微力を尽くしてまいりました。
メモリストはより安定した透明性の高い社会のベースラインとなって
平成の中期にはびこった野蛮な犯罪の大掃除を成功させた。
困難な状況から幾つもの打開的法案を通し、不埒(ふらち)な保守派の様式を覆した。
これで判ったことは、税金さえ払っていれば国民であるというのは奢りだったという事実です。
だからこそ、公共サービスは正しき人々のためになくてはならない。
このサラマンドラは迅速で正確な情報の供給と共有を可能にし、
地域社会の目を密にすることで、皆さんが抱える多くの不安を取り除いてくれることでしょう。
あと17時間後の夜明けと同時に衛星から
パブリックレジティマシーを通した良質のインフォメーションが発信され、
学校や病院、警察、消防、空港等の交通機関、首都圏のあらゆる公共施設が
本当の意味での国民のためのネットワークになるのです。
これからは、日本の誇るこのハイパーテクノロジーを、世界の国々がモデルとするに違いありません!」
沼屋は人差し指でボタンを連打すような仕草を取りながら抑揚を付けて熱っぽく語る。
衛星を取り巻く映像の周りには幾つものウィンドウが飛び出して、
不審者の早期発見や渋滞が無くなるという説明をCGアニメにして観せていた。
「皆さん、この宇宙が見えますか。美しい星々が。美しい人々が。
なぜ星は輝くのでしょうか?
それは太陽があるからです。太陽がなければ星も石ころにすぎません。
我々は皆さん一人一人を輝かせる太陽になりたい!」
盛大な拍手はホールを駆け巡り、立体映像はもはやアミューズメントパークのアトラクションであった。
時刻は13時10分。
突如めまぐるしく動いていた映像が停止し、BGMが掻き消える。
そして、レコードのノイズのようなザラついた音が館内に放送され始めた。
どよめく来場者と主催するスタッフ、サラマンドラプロジェクトの関係者達。
沼屋が
「おやおや、VJが宇宙にみとれて手元がお留守だったのかな」
とジョークを言って会場を笑かすと
「皆さんご心配なく、そのまま少々お待ち下さい。すぐに戻りますので・・・
あ、あと本日ご用意させていただきましたシャンパンは帝都ホテルの選んでくれたものです。
どうぞお楽しみください」
と笑顔で一言添え、内心煮える思いでステージ裏の控え室へ足を向けようとしたその時、
ザラつく音に乗って、ヴォコーダーを通した地の底から響くような濁った声がスピーカーから流れ始めた。
"我が名はスモルグ、虚無の使いなり・・・"
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下の異変に気がついた結衣が振り向いて何かを考える。そして
「流斗くん」
と一言呟いて5階の出口へ足を運んだ。
流斗はついて行かなくてはと思う反面、まだ何も答えが出ていないのにこの場を離れることに未練が残り、
またここを離れてはいけないような気もしていた。
さっきから眺めていたのはエレベーターのドアにペイントされている5Fという表記。
ここは使用できなくなっているはずだが、わずかにエレベーターのドアが開いて、
その隙間に10cmの暗闇を覗かせている。
そうだ、映像の最後の一枚はこれに間違いない・・・
僕と何の関係があるんだ?
名残惜しそうに、身体をさっき来た方向へ返した。
その瞬間
流斗の瞳に映る
さっきまで存在してなかった光景が
こんなものを見るために
ここへ来たのか?
衝撃が走る
そして世界は
ホワイトアウトしていった・・・
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おぼろげに物の形が捉えられるようになってきた。
白い不透明なビニールカーテン。白いシーツ。白い寝間着。消えた白色灯。
白の空間に異様なほど鮮明な色彩が眼前に置かれている。
ハンバーグとニンジン、ブロッコリ、これは・・・麦茶だろうか?
さっきまで何か話していたが、夢だったか現実だったか判然としない。
カーテンの向こうから厳めしい初老の男の声と、それに答える若い男の声が聞き取れた。
「とにかくなんとかしてサラマンドラを停止させろ! 首都警の威信にかけてだ!」
「緊急停止のための通信は衛星のインフォメーションシステムが起動していないとアクセスできません。
自動的に立ち上がるのが初回発信の1時間前になりますから、それより早く停めるとしたら
実際に宇宙まで行かなきゃ無理なんです。もちろん、その設備も能力もない。手段がないんです!」
「1時間じゃ緊急停止通信も間に合わないんだろ?」
「はい・・・他国の衛星にも通信の連携を呼びかけていますが、通常の回線とは異なりますんで
コンタクトできないんです。あの事故で開発者がみんな吹っ飛ばされて現対策チームも実際烏合の衆だ。
サラマンドラを止めることは出来ますが、時間と装置の両面の問題で初っ端の送信だけは防げないんですよ。
もう受信する側を止めるしかありません」
「バカな、病院、警察、消防、空港、そして官邸までアクセスしてるんだ!
都市の公共機能が麻痺するってことだぞ。いったいいくらの損害が出るのか想像もできん!」
一呼吸終えてから、初老の男が親しげにもう一人に対して言った。
「ゆいちゃん悪いね、あの子のことは頼むよ。タイムリミットはあと6時間だ」
「はい」
男達が床を鳴らして去っていくと、カーテンを開けて結衣がニッコリとしながら現れた。
「どう、流斗くん? どっか痛いとことかある?」
「いえ・・・」
「あら残念、痛いとこあったらそこにキスしちゃおうと思ってたのに」
結衣はベッドに腰を降ろして流斗の頭を撫でた。
「あの時の事・・・憶えてないんだって?」
「はい・・・すみません。結衣さん・・・でしたよね?」
「そうよ〜、あなたの恋人の結衣さんだよ〜」
結衣は流斗の手つかずな病院食からブロッコリをつまんでパクつく。
流斗がじーっと眺めていると、笑って誤摩化されてしまった。
「記憶、どのへんまであるの?」
「僕は浅川 流斗で高校生で新東京生まれで、父は海外出張で、僕は一人暮らしで・・・」
「吉祥寺公民館へ行ったことはどう? 憶えてる?」
「・・・・・・」
俯き加減に何も無い空間を見つめながら首をかしげる。
「じゃあ「ぬ」は?」
「ぬ?」
「ん〜、だよねぇ。医者がね、爆発のショックで一時的に記憶障害を起こしてるって言ってたし。
まぁすぐ戻るでしょ。気にしないでね♪」
そうだ。ここは病院で、僕は入院してる。
爆発?
怪我をしてるみたいだし、記憶が曖昧で、とにかく、何かがあったんだ。
「あの、すみません。もう一度、教えてくれませんか・・・何があったのかを」
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結衣は小指で左こめかみを掻いてから携帯を取り出した。
「キミは今日、私の事務所を訪ねて来た。見たことも行ったこともないような場所が
見えるって言うんでね。それで一緒にそれと思わしき場所へ行ったわけよ、何処だと思う?」
「吉祥寺公民館ですか」
「That's Right♪」
結衣が流斗のほうを向く事もなく弄っていた携帯は、その小さな画面を横にして映像を映した。
それはついさっき報道されていたニュースの切れ端である。
「何ですか? 画面に映ってるのは・・・白く煙が立ちこめてる・・・」
「私達が到着して間もなく、爆発が起きた公民館の映像よ」
流斗は反応鈍く、爆発ですか、と拍子抜けするような言葉を漏らす。
実感がないが、確かになんだか頭が痛いような身体が痛いような気がする・・・
「で、これが爆発前の映像ね。オフィシャルサイトに載ってる画像を拝借したわ」
そこには青空を背にした大きな「ぬ」が威風堂々と映し出されていて、なんだか滑稽だった。
そうだ、僕はここを知ってる、ここへ行ったんだ。
よく思い出せない・・・たしか上へ・・・そうだ5階へ行って・・・
・・・何かを見た・・・
思わず心の中で呟いくと、にゅっと顔を覗き込んでくる結衣。
流斗はドキッとして頬を赤くした。
「今から11時間前のことよ。プラスティック爆弾クラスの破壊力だったらしいけど、詳細は不明」
携帯を閉じて肩をすくめる結衣は、どうしても深刻そうには見えない。
「僕に・・・未来予知の力が?」
「か〜もね〜・・・あ、そうそう、スモルグって知ってる?」
「モルグ? 何ですか?」
「スーだよ、さしすせそのスー。スモルグ。今回爆破の前に館内放送された犯行声明がね、
そう名乗ったの。"虚無の使い"とも言ってたそうだから、たぶんネバーエンディングストーリーに
登場する怪物の名前じゃないかと思うんだけどね、知らないか」
その映画なら観た。たしか、子どもが大人達から現実を見ろと諭されて、夢や想像力を失っていって、
ファンタージェンという夢と想像の世界がどんどん消えていくという、そんな物語だった気がする。
「爆破箇所はエレベーターらしいわ。1階でドアが開いた瞬間ズドーーーン!
沼屋議員を含み死者26名重傷者11名、新東京シティになって以来の惨事ってわけね」
半分寝ているような意識がようやく活性化してきたのか、流斗の中で少しずつ不安が身をもたげてくる。
結衣の言葉は続いた。
「そいでね、そのスモルグだけど、どうもテロは現在も尚進行中みたいなんだな」
「どういうことですか? だってもう爆発したんでしょ、それで終わりじゃないんですか?」
「どうにもね、犯行声明の言わんとしてることを読み取るとだ、
サラマンドラっていう衛星を使って国民を覚醒させるみたいなこと主張してるっぽいんだわ。
具体的に何をするのかわかんないんだけど、政府のスキャンダルをバラ撒くのか、
有害指定のポルノをバラ撒くのか、ろくなこっちゃないだろーねー。
とにかく警察は大慌てだよ。そのサラマンドラを止める手だてが見つからないんだから。
破壊案なんてものまで出て来てね、投資したスポンサーだゼネコンだは激昂して
醜い責任のなすり付け合いでまぁてんやわんやよ。
あっちが立たずこっちが立たずってんで何も出来てないってわけ」
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流斗に気を使っているのか、それとも素なのか、ひょうきんな動きで軽快に説明する結衣。
彼女のブラウスは胸元にキワドイカットが入っていて、思わずその谷間に視線が落ちそうになるが、
すぐにネックレスの番兵が鋭い眼光をキラつかせるので視線はすくんでしまう。
・・・ボクは、いや・・・
時折何か思い出したような、また忘れてしまったような、変な感覚に陥り、
不安だけが消えることなく重なっていった。
「公民館への入場は市民IDの確認がないと入れない。私もキミもそうだったんだよ。
そしてあそこにいた総勢44名全員の身分は確認済みなの。つまり皆メモリストってわけね」
そこでゆっくりと、まるで猫が獲物に気取られないよう近づくか如く、
結衣が流斗を見つめながらにじり寄って囁く。
「公民館は前日に定期清掃と電気系統のチェックが入ってる。メモリストの業者の裏も取ってるわ。
つまり事前に爆弾を仕掛けてはいなかったのよ。
すぐに衛星発表のイベント設営に入った会場は常に人が動いてる状態だった。
・・・と、言うことは、犯人は大胆不敵にも発表会に爆弾持ったまま入場してきたってことかな?」
結衣の甘い香水の香りのくすぐられ思わず枕の上まであとしざる流斗。
「犯人は沼屋の講演途中館内放送を流してエレベーターに乗り込み、爆弾を仕掛けた。
そして出来るだけ安全なポイントに移動してやりすごした・・・それが今から2時間前までの見解」
「2時間前までの、ですか」
「・・・エレベーターシャフト部分に焦げた肉片が付いていたんだって。
位置的に爆弾と一緒に誰かいたってことだよね」
皮膚が泡立つ感覚に流斗は固まった。
「怖い世の中よね、スーツケースくらいの大きさでこれだけの悲劇が作れるんだから。
身元確認できない遺体がいくつかあるけど、
公安は爆弾と近接していたのは犯人の可能性が高いとみてる」
「自爆テロ・・・」
「まぁ、そうね」
まるでミステリー映画のストーリーテラーのような結衣に流斗は完全に飲まれてしまった。
「現時点での見解は、犯人は来場客ではなく、
サラマンドラプロジェクトの関係者による内部の犯行と断定したよ。
公民館のプライバシーシステムや監視カメラなんかは全部壊れてしまったけど、
記録媒体は生きてたんだ。そこにね、怪しい名前が見つかった。
それはプロジェクトから外された開発者の一人でね、名前を浅川 昌平って言うの。
そう、あなたの伯父さんよ」
18
平成生まれのゆとり教育世代は最も少子化の深刻な時代を過ごし、
年金はスズメの涙ほどで、人知れず餓死、孤独死する者も多い。
浅川 昌平は拓殖大学卒業後、サイオネット社の次世代通信開発部へ就職。
各界のエンジニアと共に衛星を使った情報伝達に深く関わっていく。
四十路に差し掛かろう頃から件(くだん)のサラマンドラプロジェクトに参加。
敏腕に仕事をこなし、滞りもなく開発は進んだが、ある時期から疑問を抱くようになる。
サラマンドラの用途は市民の生活向上のために作られていたはずだったが、
浅川 昌平は、これは市民を操作するための道具になってしまうと危惧したのである。
会社からは思想を語るなと注意されながらも、互いの主張に決着はつかず、
ほどなくして浅川 昌平はプロジェクトから降りた。
その理由はBSEの発症とされている。
「叔父がサイオネットで働いていることは知っていました。でもインターネット関係の
仕事をしているのだと思っていました・・・あれ? 叔父は・・・」
そう言って流斗が黙ってしまったので結衣は話を再開する。
「来ていたのよ、浅川 昌平がね。あの会場に。まぁ、それ自体は不思議じゃないけど。
来場者の市民IDにね、記録があるの。でもスタッフの中の生存者達に聞いたら、
彼の姿を見た者は誰もいない。爆発の3時間も前に入場しているのにね」
「叔父が・・・犯人なんですか?」
「流斗くんのお父さんが日本に戻って来るまでまだ一日かかるそうよ。
サラマンドラが首都圏を射程に捉えるまであと6時間。
だからね、それまで協力してほしいの」
「・・・えぇ・・・はい」
流斗は胸元のカットに逆らえず頷いた。
19
浅川 昌平は3ヶ月前までサイオネット本社近くの中目黒に住んでいた。
だが、ぷっつりと消息は途絶える。
この新東京シティではメモリストでありながら所在不明になる者が年々後を絶たない。
理由は色々だが、今回に限って言えば事故ではなく故意だと思われる。
流斗も曖昧な記憶を辿り、ようやく公安の掴んでない場所を口にした。
小金井の貫井である。ここに借りている安アパートは名義が彼の友人のもので、
一度父とのドライブで通りかかった時にその話を聞いていた。
「懐かしい・・・ような気がします」
「ごめんね、まだ包帯もとれてないのに」
「いえ」
ガルウィングのボンネット越しに見える小金井は杉並よりずっと緑が多い。
でも今は深夜12時をまわっている。駅前を離れれば真っ暗な静寂が広がるばかりだ。
目的地には記憶のとおりにアパートがあった。
二階建ての、寝かせた直方体といった形容。
白い壁は雨水の痕で茶色く斑模様に変色していた。
階段は赤錆びた鉄骨にコンクリの板が嵌め込まれた作りで、
なるべく手で触らないように二階へ向かう。
結衣は心配なのか時折流斗がついて来ているか振り返って確認し、
表札の出ていない202号室の前で足を止めた。
ドアにあしらわれた狭く細い配達口には
不動産やゴミ回収業者等のチラシが無造作に突っ込まれている。
「あの、結衣さん」
「ん?」
「どうするんですか?」
「ピーンポーン♪・・・ってするよ」
「それで誰も出なかったらどうするんですか?」
「ドア蹴破って踏み込む。その時の決め台詞はまだ考えてないけどね」
「爆発・・・とか、ないですよね」
「アハハ、そんときは私の後ろに隠れなさい。爆風から守ってあげるからさ」
結衣は笑って流斗の頬を人差し指でぷにっと触る。
すっ・・・と指先は離れ、そのままインターホンを押したが、音は鳴らなかった。
アパートの前は墓地になっていて、開けている分風も強く感じる。
熱くも寒くも丁度良くもない不快な温度。
外から中の様子は曇りガラス越しの暗闇しか悟ることが出来ず、
灯りの消えた室内は生き物の気配などまるで感じない。
虫の声が悲鳴のように耳障りだ。
流斗は、ドアノブに手を伸ばす結衣の肘を、半ば無意識の内に摘む。
ここを開けてはいけないような気がした。
「怖いのかな〜?」
「・・・はい」
「おや認めちゃったよ、可愛いなぁもう!」
結衣は流斗の額にキスをする。
不意を突かれた青少年は怖がることすら忘れてしまったようだ。
「んじゃ、行くわよ男の子!」
ドアに鍵はかかっていなかった。
ゆっくり開けていくと、室内の闇が外に染み出してきた。
20
踏み込めない。
ここへ入ったら・・・暗闇に喰われてしまう。
流斗は金縛りにあっているようだ。
「ごめんくださ〜・・・い」
竜頭蛇尾気味に一声発すると、結衣が玄関へ足を突っ込んだ。
「浅川 昌平さーん。夜分すみませんが、警察の者です〜」
なんだか結衣の言葉尻が妙に浮ついている。
振り返った視線が流斗と交わった。
離れちゃダメだ。
そう思った流斗は、意を決して異次元に侵入した。
灯りは点かないようだった。
電気が通ってないわけではなく、蛍光灯が外されているのだ。
床には脱ぎ捨てられたシャツや靴下、新聞紙、コンビニの袋、何かのスプレー、
ビールの空き缶、吸い殻の溜まった灰皿、そして無数に入り組んだケーブルの類い。
ハウスダストだろうか。目がしばしばする。
"バタンッ!"
流斗は反射的に仰け反った。
風に引き戻された入口のドアが勢いよく閉まった音だ。
結衣がペンライトを付けて室内を調べ始めた。
玄関のすぐ脇には台所があり、水に浸かった皿が積まれている。
その台所の木床が一畳ほどで、あとの五畳ほどのスペースは
畳の寝室である。敷き布団か端にたたまれて、
この部屋にしてはやけにしっかりとしたちゃぶ台がパソコンを乗せている。
テレビ、冷蔵庫、この時期にはもう使わない扇風機。
結衣は雨戸を開けようとしたが錠の部分が歪んでいるのかびくともしない。
誰もいない。
何の気配もない。
あの悪寒は思い過ごしだ。
両手で顔を覆うと、頬にも傷を負っていることに気がつく。
流斗は、無性に自分の顔を見てみたくなった。
きっとげっそりと青ざめた酷い形相をしているに違いない。
ちょっぴり情けなく、そして恥ずかしい気持ちになる。
浴室はトイレと一緒になっていた。
バスタブにはビニールカーテンが半分にかかっていて、その隣に鏡を発見できた。
そこに近づいた瞬間、
カーテンの隙間からバスタブの中が見えてしまった。
そこには、浅川 昌平がいた。
21
心臓を鷲掴みにされたような戦慄が駆け抜ける。
血液が逆流し、呼吸の仕方を忘れる。
恐ろしいのに、視線は彼から剥がせない。
体は粘土細工のように固まって四角いバスタブの中に埋め込まれていた。
浅川 昌平を知らない者が見れば、まだ人間か造り物か判別できなかったにちがいない。
暗闇の中でうずくまる屍の周りには、枯れて赤茶けた花びらが幾つも飾られていた。
花葬された・・・ということだろうか。
腐敗もせず骨にもならず、乾いた泥のように曝されていたそれは
時間も空間の認識も麻痺させ、少年を彼方へ連れ去っていく。
俄に、
放心する流斗を引き寄せる力。
叫びそうになる流斗の顔面は暖かい感触に覆われた。
結衣は流斗を抱きしめながら頭を撫でる。
男とは情けない生き物で、「女」による一瞬の主張に、もう安堵してしまうのだ。
「・・・叔父です。間違いありません」
流斗は自分でも驚くほど淡々と答えてみせた。
結衣が抱きしめたまま片手でカーテンを開けて行くと、
バスタブの縁にテープレコーダーが置かれているのを確認する。
そっと屈み、結衣の中指が再生ボタンに振れると、1〜2秒の躊躇の後、力をかける。
ザラついたノイズとテープを流す物理的な音色。
記録された過去の世界の奥で、犬の鳴き声が聞こえた。
遠い。
幽かに車の走っていく音も。
そして、唐突に、或は待っていたかのように、
男の声が暗闇に響いた。
"・・・薬漬けの毎日だ。今更この程度の薬物で死ねるかどうか疑わしい・・・
いずれにしても、これを聞いているのはキミだけだろう
・・・それとも先に権力の跳梁者(ちょうりょうしゃ)共が嗅ぎ付けたかな。
それならばそれでもいい。残念ながら諸君には
もうこの警鐘を止められはしないのだから・・・"
22
声は微妙に反響している。
録音もこの浴室でとられたものなのだろうか。
"かりそめの秩序・・・実体は公平でも公正でもない。
我々弱者を見えない場所へ押し込めて
さも社会が安定したかのように演出しているだけ・・・"
一旦咳払いをしてから話は続く。
"成熟した国では人々が活力を失い安定を求めると言う。
まやかしだ。
口当たりの良い表明とは裏腹に、我々に維持と抑制を求めてきたのは国ではないか。
個人情報保護として警察でも病院でも待ち合いでは番号で呼ばれる。
地域のネットワークを強化と言いながら、そこに入れず生活保護を受けられない下流層。
労働時間が一日10時間を超え、地域に裂く暇が持てない者を反社会的とねぶる。
文化庁が認めないサブカルチャーの行き先は決まって発禁だ。
芸術は殺されていく。理解も殺されていく。
錦の御旗に掲げる「家庭の復活」も富裕に恵まれた者の特権にすぎない。
既に格差の継承は二世代にわたっているのだから。
そして・・・この新東京シティでは、市民の洗脳が末期的段階に達してしまった。
量産された人々は、まるでCMのように、誰でも着てる服を着て、誰でも観てる番組を観て、
声高らかに「自分らしく」と合唱する。
そこに主体性を持ったファッションが登場すれば「ダサい」と嘲笑する言葉が出る。
結局基準に合わない者は攻撃されるのだ。
これを国が選るというなら、生殺与奪を握られているということだろう。
ここの市民は、隣人の他愛ない言動に腹を立てながら、
いつもその先の「なぜ」に想像力が行き着かない。
この環境に埋没していれば仕方がないのだが・・・"
流斗には、浅川 昌平が何を言わんとしているか意図はわかるのだが、
彼の感情が先走っているのか、思いのまま喋っているようで、とにかく言動が荒く掴みづらい。
"もう、ここ数十年、新東京シティではデモもストも起きていない。
政府は恥ずかし気もなく誇っていたが、本来民主主義という政治形態の真価から鑑みれば
不健全極まりない状況ではないか。
徴用(ちょうよう)の循環だ。
凪のような人々だ。
無心に味のない餌をあてがわれる養鶏場のような街だ。
不満はあっても行動に起こさない。
せいぜい陰口を叩いて溜飲を下げるだけ・・・。
この病理はサラマンドラを持って更に進行するだろう。
今、気づく事ができなければ、もう永遠にチャンスはこないかもしれない"
やがて、独演はこう続いた。
"・・・人間と昆虫との違いは何か?"
23
目を瞑ると回転灯の赤い反射が瞼(まぶた)の裏に残像を刻んでいた。
数人の警官とロングコートの刑事、紺色のジャケットの人は鑑識だろうか。
深夜に聞き込みというわけでもなく、大人達は静かに動いている。
ガルウィングの後部座席へ移り一人横になっていた流斗は、
感情が抜け落ちたように脱力していた。
やがて車は走り出す。
結衣と二人きり。
彼女が何か喋っていたが、耳まで届かない。
ただ、
運転する結衣の後ろ姿は、心成しか母親のように思えた。
尤も流斗は母親の顔を憶えていないのだが。
「傷も癒えてないままごめんね、連れ回して」
「いえ・・・」
流斗はまだ虚ろなまま返事をかえす。
暗闇・・・
遠くに聞こえる犬の鳴き声。
テープを送る音。
これはさっきの続きなのか・・・
誰?
誰かそこにいる。
深い、深い闇の中へ落ちていく・・・
その落ちていく者の顔は・・・
・・・僕だ・・・
24
流斗が身体を起こす。
「あれ、もうお目覚め? いいんだよ、寝てても。キミの協力で首謀者を発見できたからね。
まぁ、会場で自爆した実行犯と含めて、犯人は死んじゃったわけだし。
あとは上の人達に任せちゃおう」
「僕は・・・死ぬかもしれない・・・」
「え? 何?」
「未来予知ですよ。僕が暗闇の底に落ちていく夢・・・。
最近、よく嫌な夢を見ていた・・・そんな気がするんです。
きっと公民館の映像も、その悪夢の間に予知していた出来事なんだ!」
ふと何かを思ったのか、JRJの東小金井駅近く、人気の無い駐車場横に車を付ける結衣。
「・・・どうしたんですか?」
「どうしよっか」
狐のような悪戯な笑顔のまま、運転席と助手席のシートの隙間をにゅるりと抜けて
流斗の横に寄り添ってきた。
「結衣さん?」
「さっきは怖かった? 伯父さんを見て」
「・・・わかりません。たぶん、怖かったと思います」
「悪夢も怖かった?」
「怖いですよ。怖いから悪夢なんでしょ?」
「汗かいてるね。シャツ脱ごっか」
「いえ、あの、大丈夫です」
結衣は子をあやすように流斗の頭を抱え優しい口調で話した。
「私が中学生くらいのころ見た映画でね、こんな台詞が出て来るの。
この世の中に真実なんてものはない。全部嘘でできている。
だから皆、その中から一番マシな嘘を選んで暮らしているんだよって。
あの時はあんまり実感の湧かない言葉だったんだけどね。
この仕事やるようになって、あ〜そうかもな〜って思うようになったんだよ」
女性の部分に密着されて、思春期の少年は
悪夢によって速まった動悸が別の理由から鳴る動悸へと変化させていく。
「結衣さん、あの、ありがとうございます。少し落ち着きました。だから・・・」
そこで、結衣の唇が流斗の唇を塞ぐ。
少年はカチカチに固まって結衣の視線に釘付けになってしまった。
25
「ん?」
触れ合うギリギリの所まで接近している結衣の喉から
あの可愛らしい声での問いかけ。
流斗は情けなくあわあわと精一杯狼狽していた。
「ん?」
また見つめながら結衣が、さっきより少し高めのトーンで問いかける。
三度目はなかった。
代わりに舌を絡み付かせるような濃密な接吻が待っていた。
黒皮の後部シートに仰向けの流斗はシャツをはだけて、
もう織り上げた膝の下までジーンズを脱がされている。
「じゃあHしちゃうけど、いいよね? ダメでもするけどね」
「な、なんでですか」
「パニクッてテンパッてどうしていいかわかんないんでしょ?
そういう時は一発ヌいちゃうとスッキリして妙に落ち着いちゃうんだな。
ほらほら、お姉さんに慰められなさい♥」
気がつけばパンツも脱がされて、自分の手でしか触った事のない部分を
丹念に弄られて、それは実に呆気なく直立して見せた。
「おや、童貞くん? だよね〜」
結衣もブラウスを開け、豊かなバストがこぼれ落ちると、
そのまま流斗の上にしなだれかかった。
女性に対してこう思うのも失礼な話だが、正直ずっしりと重い。
童貞どころかキスも初めてだった流斗は我を忘れて
舌先を結衣の口の中に押し込んで絡み合いを求めた。
クロール25mを泳ぐような激しい接吻と息つぎ。
SEXとは、こんなに必死にするものだったか。
二つの乳房にも容赦なくむしゃぶりついた少年は
薄らと涙まで浮かべてミルクも出ない無駄に大きな胸を、音を立てながら吸い上げる。
首筋では輝きを失ったネックレスの門番がおめおめと引き下がっていく。
「んじゃ、ゴチになりま〜す♪」
汗で頬に髪の毛の張り付いた結衣が、
その姿からは想像できないとぼけた事を耳元で囁き、
二人の下半身は繋がった。
皮をかむっていた先端は膣壁に圧迫されて、奥へ進むほど剥けていき。
風呂で洗う以外、あまり空気にもさらされていない敏感な範囲が
肉のうねりの中で弄ばれ、痛みを伴った。
「どうする? 試しに流斗くんから動いてみる?
それとも最初は私が動いてあげたほうがいいか」
無我夢中の流斗は胸から離れることが出来ず答えられない。
今この胸を手放したら、ずっとおあずけをくらうのではないかと不安で仕様がなかったのだ。
きっと見れたものじゃない恥ずかしい顔をしているのだろうと自己嫌悪気味の流斗、
待ちかねた結衣がグリグリと石臼をひくように結合部を支点にしながら腰を動かし始める。
流斗は、自分でもビックリするくらい情けない快感の悲鳴を上げてしまった。
26
曇っていた車窓の内ガラスも乾いて、僅かな夜光を受け入れている。
結衣は運転席へ戻って身だしなみを整えると、ボーっと余韻に浸っていた。
タバコでもふかしていたら、さぞ様になっただろう。
流斗は射精しなかった。
できなかった。
緊張と興奮のあまり身体が萎縮してしまったのだ。
それが悲しくもあり、こうして冷静になった今は、少しホッとしている。
「何、イケなかったのが悔しい?」
「あの・・・すみません」
「まぁ最初はよくあるんじゃない? 私もSEXでイケるようになったの5回目からだし」
「あの、でも、うれしかったです」
「そう、じゃあ良かった」
またあの笑顔だ。
あの笑顔はずるい。
"ピリリ!"
結衣の携帯が鳴る。
「はい、こちら我那覇、どうぞー」
何を言われているのかわからないが、男の声だ。
「え? それ本当?」
あの飄々(ひょうひょう)とした結衣の表情に、僅かな狼狽が見えた。
「えぇ・・・うん、・・・うん」
何か動きがありそうだと察して、流斗はほどけた包帯を巻き直し、シャツのボタンを閉める。
「えぇ、この子をあの場所へ・・・」
電話を終えた結衣は暫くハンドルを握ったまま考えていた。
「結衣さん、何の連絡だったんですか?」
「うん・・・えっとね・・・」
結衣は額に左手の人差し指と中指をあてがって、再び沈黙してから10秒の間を置いて、
車を走らせ始めた。
「説明は目的地に付いてからね」
「どこへ行くんですか?」
「吉祥寺公民館よ」
それ以上は語らなかった。
電話で何を言われたのかわからないが、結衣の流斗に対する口調は、さっきまでとは違う。
微細だが、険しさというか、葛藤のようなものが窺えた。
哀れみのような気配まで感じる。
流斗は一旦考えるのをやめた。
悔しい話、この感情の静まりは結衣のおかげに他ならない。
でも男になった恍惚に浸る余裕もまた無かった。
目を閉じる。
浅川 昌平の粘るような声で、あのテープの最後の言葉が蘇ってくる。
"星が輝くのは太陽があるからではない。
自らの生を全うし、その命が消滅する瞬間の閃光が、
永い永い時間をかけて、我々の元に伝わった意思の光だ。
太陽の恩恵がなくば輝けないというなら、私は死の星でかまわない"
時刻は既に4時を回っていた。
27
遠くの空が白み始めているが、頭の天辺は至って紺碧に染まり、
少し肌寒い。
吉祥寺公民館は静まり返っていた。
報道陣もブルーのビニールシートで各ポジションを陣取ったまま無人である。
「夜通し行方不明者の捜索が続いてたらしいけど、今は人員を公共施設の警戒に裂いてるわ。
再開は朝7時からって話だから、一歩足を踏み入れるともう私と流斗くんの二人きり。
ど? ちょっとスリリングなデートじゃない」
結衣はキープアウトとプリントされたテープを、ハードルを飛ぶようにぴょんと越して、
うっかり足を縺れさせては照れ笑いをしていた。
見上げた公民館は真っ黒な伏魔殿だ。後ろを振り返れば「ぬ」。
さっきから何か違和感を感じる。
何かが引っかかる。
何かがおかしい。
何かが・・・。
「流斗くーん」
結衣が大きな入口の中からおいでおいでしていた。
流斗はポケットに手を突っ込んで、前屈みになりながら現場の闇へ染み込んだ。
ガラスは粉々に散って、会場は真っ白に砂を被っているような状態である。
電気は点いてない。外から差し込む青い色がやっと空間面積を認識させてくれる程度。
死体は見えないが黒いしみが床や壁に付着していて、その正体は容易に想像できた。
惨状だ。
薬品の臭いが鼻をついたが血なまぐさいよりマシかもしれない。
結衣は足下を確かめながら階段を上っていく。
凄まじい衝撃だったのだろう。ガラスは5階に上がっても割れていた。
流斗は階段で5階まで登ったくらいで息があがる自分に少し腹が立った。
「さすが公民館。あの爆発で建物自体は崩れたとこないらしいよ。税金の力かねぇ〜」
結衣は5階の貯水タンクやダクトが入り組む迷路の隙間を抜けて、
昨日まで壁一面窓があった東側へ顔を覗かせる。
風が気もちいい。
「ん〜・・・絶景かな。こっち来てみーよ」
日の出を予感させる都市のシルエット。
それを眺める結衣。
流斗は思わず魅入ってしまった。
奇麗な人だ。
さっきまで自分とひとつだったなんて全然実感がない。
「・・・さてと、何か思い出した?」
そうだ。
「キミはここで何かを見た・・・そう言ったよね」
違和感の正体はこれだ。
「思い出せないなら出せないでかまわないんだけどね」
この人が奇麗なままなんだ。
これだけの悲惨な事故があったのに、彼女には傷一つついていない。
「ほら、もうすぐお陽様が昇るよ」
窓際まで来た流斗と入れ違うように、結衣は彼が来た方向へ一歩下がり
それは、一つしかない出入り口の階段への退路に身体を挟み込んだ形になった。
さり気なく、それでいて淀みない動き。
「結衣さん・・・」
結衣は相変わらず狐のような笑顔をしていた。
28
この世の中に真実なんてものはない。
全ては嘘でできている。
あの言が頭の中で反芻(はんすう)される。
そうだ、この人はこれほどの爆発の中、どうして傷一つ負ってないんだ?
僕と一緒にいたんじゃないのか?
「何? あのときのこと思い出せた?」
思い出すのは来客のリストが記録に残っているという説明の時、
監視カメラの類いが全部吹き飛んだという言葉だ。
つまりここは今、監視都市の中に突如現れた死角。
何が起きても誰も気がつかない唯一の場所ではないか。
疑心暗鬼が過って口ごもる流斗。
「ん? 焦らなくていいんだよ。落ち着いて行こう。
ほら、私の後ろのほうにエレベーターがある。
あなたが見た予知映像の一つ、5Fの表記だよ。
エレベーターはドアが開いてるわ。
爆圧で抉じ開けられたのね。
その正面に立ってたキミがモロに煽られて吹き飛ばされた・・・
それを私が発見して病院に連れてったってわけよ」
スッと少年の肩に伸びる結衣の指先。
咄嗟に身を引いてしまう。
「流斗くん?」
頭に痛みが走る。
僕は、あのとき、何を見た!?
「ふらふらしてるね。後ろ、気をつけないと危ないよ」
ハッとして流斗は窓の外を振り向いた。
さっきより明るくなって、巨大な都市の全貌が徐々に立ち上がり初めている。
「・・・結衣さん・・・あの電話の内容は何だったんですか?」
「ん?」
「目的地に到着したら説明してくれるんでしょう」
「ん〜、まぁ、あまり楽しい話じゃないよ。例の死体、あのエレーベーターシャフトに
肉片の付着していたっていう。その調査報告が入ってね」
流斗は辛抱強く次の言葉を待った。しかし、
「位置的にエレベーター前でしょ? 爆発の瞬間、見たものを知りたいな〜って。
ここに連れて来たら思い出すかもって思ったんだけど、ごめんごめん、気が早かったよね」
と、話を終わらせようとしている風である。
流斗は食い下がった。
「調査報告、どんな内容だったんですか?」
「そんなのいいじゃない。死体の話。食事できなくなるよ」
「教えて下さい」
「ど〜しよっかな〜」
恍けて身体をメトロノームのように揺らす結衣。
流斗は歯を食いしばって床を凝視してから結衣をねめつける。
「なんで誤摩化すんですか? 何か僕には言えない事情があるんですか?
それとも・・・全部あなたの作り話で、ここへ来たのは他の目的のためですか!」
「アハハ、どうしたの、怖い顔して」
退路を断たれた流斗にとっては窓際に下がるしかない。
「流斗くん。落ち着いて、別に無理に思い出さなくていいのよ。
忘れてしまったなら、ずっとそうでもかまわない。だから・・・」
「こ、来ないでください!」
ゆいはニコニコしながらゆっくりと接近する。
警察の訓練について知識はないが、結衣は一見、力が抜けたような姿勢で隙がない。
明らかに流斗が咄嗟に動いたら対応する用意がされている構えだった。
「つれないこと言うじゃない。車のシートの上ではあんなに甘えていたくせに」
そうだ、そうに違いない、僕は、あの時、この場所で彼女を見たのだ。
プロジェクト関係者の遠い身内である僕にヒントになるような画像を植え付け、
僕をこの会場へ侵入するための口実にして・・・爆弾を仕掛けた。
さっきの電話は、ここへ僕を連れて来るよう指示されたのだろう。
それは僕の記憶を戻すためなんかじゃない。
あの時の爆発で殺し損ねた僕の口を封じるためなんだ!
「ほら、そんな震えないで、無理強いさせた私が悪かったわ、こっちへ来なさい」
結衣は優しい手つきで誘っている。
「嫌です! あなたこそスモルグの正体だ!」
29
夜明けの待てない街の音が後ろからざわつき出す。
電車の走行音、咳払い、クラクション、きっと今頃、
新聞配達や朝のジョギングに出かける人達が、日常を動かし始めている。
遠い。
ひどく遠い日常が背中の向こうに広がっている。
「OK、流斗くん。何か勘違いしてるみたいだけど、またどこをどういうふうに曲解して
私を犯人にしたのかな。いいかい少年ホームズ、私はただ真実を知りたいだけよ」
「それは僕だって同じです! あなたが犯人だ! あなたがスモルグだったんだ!」
「流斗くん! とにかくこっちに来なさい。落ちるわよ!」
流斗の踵(かかと)が窓のヘリにかかって、サイコロのように砕けたガラスの破片を外へこぼした。
この高さで落ちたら即死に違いない。
「あの電話の内容は、僕があの時の光景を思い出す前に消せって言われたんでしょ!
だからここへ僕を呼び出したんだ!」
「違うわ! 本当に死体の検証結果が出たんだって! でもね、今話してもキミは混乱するだけよ」
「嘘じゃないなら言えるはずじゃないですか!」
「わかったわ、あなたが嘘を言ってないって信じる。だからこっちへ来なさい」
「嫌だって言ってるじゃないか! もう嫌だよ!」
目に見えない死神を払いのけるかのように激しくかぶりを振る。
「いいわ、聞きなさい。あなたの記憶を辿る鍵になると思ってここへ連れて来た。
それはね、死体の発見場所のせいなのよ」
結衣は左腕をぶんっと振って流斗から目を離さないままエレベーターのほうを指差す。
「エレベーターシャフトの天井、つまりこの5階の天井部分に頭部が引っかかっていたの。
犯人と思われた死体は至近距離の爆発で粉々になったけど、頭だけは爆風で打ち上げられた。
この事態は浅川 昌平も想定してなかったんでしょうね・・・。
その死体はメモリストだったけど、市民IDは破損して身元は不明だったわ」
「それが、その犯人の身元がわかったんですか?」
「いいえ、身元も、それが犯人かもわからない。ただね、その死体の頭部は高校生くらいの少年で、
カラーコンタクトをつけていた・・・私は、そういう少年を知っていたわ」
サラマンドラが首都圏を射程に捉えるまでに、既に残り4分を切っていた。
30
「誰なんです、その少年って」
「キミはカラーコンタクトを付けたことある?」
「なんですか急に、そんなの、覚えてないですよ」
「小学校の時の友達の名前は言える?」
「な、なんなんですか、それが何の関係があるんですか!」
「答えて」
「竹下、木村、小田、他にもいます」
「あだ名は?」
「え?」
「その友達のあだ名よ、あったでしょう」
「わからないです」
「どこで遊んでたの?」
「・・・・」
「お父さんとドライブに行ったんでしょ。浅川 昌平の居場所以外にどんな会話をした?」
「やめてください! 僕は記憶に傷害があるんだ。医者も言ってたじゃないですか!」
「浅川 流斗の記憶を探しても無駄よ。あなたの中には断片的な情報しか記録されてない。
おそらく、もう浅川 流斗はこの世にいないわ。あそこの天井に引っかかっていたのが流斗くんなのよ!」
背中から感じる風が突風に思えた。
足下がおぼつかず、再びガラスの破片を外へこぼす。
「な・・・にを、何言ってるんですか? 僕はここにいるじゃないですか!」
「詳しく話すからこっちへ来るのよ」
「嘘だ! あなたは僕を騙そうとしてる。そんな手には乗りません!」
そうだ、まやかしだ。
僕は浅川 流斗だ。
そうでなくてはならない。
自分を失うってことは、世界を失うってことだ。
「僕は浅川 流斗だ! そうでなければ何だっていうんだ!」
喉が渇いて声がかすれる。
頭の中で竜巻がおきてるみたいだ。
自分が自分であることの証明を必死に探して・・・。
「僕が、その、証拠に、僕である、ことの、僕は、僕は、、」
無い。
自分を証明できる要素が何も。
市民IDだって書き換えることは可能だ。
証明してくれる人は。
父さんならきっと証明してくれるはずだ・・・
でもそこに違和感が生じたら?
DNA鑑定はどうだ? それも確率の話。
自分の記憶に確証がもてず、自分以外の全てに否定されたら、もう、僕は僕じゃいられない。
こんなに脆いのか、「自分」という存在は?
あの悪夢は、予知能力なんかじゃなかった。
エレベーターシャフトの中に落ちて行く、浅川 流斗本人の姿、
そのフラッシュバックだったんだ。
浅川 流斗に成り済まして・・・僕が彼を
爆弾の乗った一階のエレベーターまで突き落とした。
スモルグは僕だ。
少年の重心はゆっくりと朝焼けに照らされる街の中へ傾く
その刹那。
結衣の手が、彼をギュッと引いて抱きしめた。
「僕には・・・自分を証明するものが何もない」
「まぁ、ほら、抱き合った時お互いに感じた温もり、それがキミの証明ってことでいいじゃん」
サラマンドラが首都圏の公共施設に一斉送信する。
そして、街中のパブリックスピーカーから放送されたのは、
PLATTERSのONLY YOUだった。
31
走る車の中から見える外の景色は、嫌みなくらい何の変哲も無く、
少年に無関心だった。
眩しい日光に目を細めて、流れ去る町並みを眺めてると、
今まで自分が何喰わぬ顔でここに暮らしていたのかと思い、
なんだか後ろめたい気持ちにもなったが、
それと同じくらい、それでも誰も気にしないんじゃないか・・・なんて考えていた。
「僕は・・・本当は誰なんですか?」
結衣は狐のような笑顔で答えた。
「とりあえず、我那覇事務所で働く真面目で可愛いアルバイトってことでいいんじゃない?」
どうやら僕に取って、それが一番マシな嘘らしい。
-おわり-