巨大な外壁が崩れ落ち海水がなだれ込む。
狭い排気ダクトから這い出した瑪瑙は辺りを見回してから
今にも水没しそうな崩壊寸前の無人要塞を一望した。
「ツイてるわ!」
思わず口元が緩む。波打ちこそ強いが、半壊した
外壁から白み始めた空が覗いて瑪瑙と西川を照らしたのだ。
その先に微かに見隠れするのは紛れもなく
ここへ乗ってきた救命ボート。まさに希望の光だ。
「さぁ…いくわよ!」
「めっ、瑪瑙さん!」
西川が眉の両端を下げて悲鳴のように叫ぶ。
軋んで唸るインカローズの影から接近してくる物体。
「奴等ね…」
「どうするの瑪瑙さん!」
「いい? 作戦を説明するわ。これはふたりいないと
成功しないのよ。頑張ってくれるわね?」
「う…うん」
「まずこの下の水面を見てみて」
おずおずと瓦礫と化している階層から下を覗く西川。
その時、不意の衝撃が後ろから襲い西川が湖へ落ちた。
びっくりして困惑しながら水上へもがき上がると
わけも分からず瑪瑙を呼んだ。答えは非情だった。
「いい? 西川さんはそこで虫どもを食い止めておいて
ほしいの。何、難しいことはないわ。ただ泣いたり
してればいいだけよ。御得意でしょ? 私が救命ボートで
助けを呼んでくるまでの辛抱だから、頼んだわよ!」
西川はまるで状況を把握できなかったが、瑪瑙の作戦は
いたってシンプルだった。つまり西川を囮にして
ボートまでのルートを確保しただけのことである。
「やだ! 瑪瑙さん行かないで! 助けてぇ!」
壁をよじ登ろうとしても流れ込む海水の濁流の揉まれ
すぐ引き剥がされてしまう。そうこうしている間に
西川の幼すぎるちっちゃな体は怪虫の
太く短い無数の足に捕らえられていた。
「葵ちゃん! 助けて葵ちゃん!」
その哀れを誘う懇願を聞きながら瑪瑙は走っていた。
引きつった顔はどこか笑っているようにも見える。
瑪瑙は西川に対して酷くムカついていた。
その背景には彼女の家庭環境が少なからず関係する。
瑪瑙には父親がいなかった。代わりに母親が二人いた。
精子バンクを介して生まれた瑪瑙はまさに彼女達母親の
人形だった。もちろん可愛がられたが、それはどこか
異常で、まるで悪質なママゴトのようでさえあり、
物心ついた時から、娘の目も憚らずお互いを求めあう
ふたりの母親を見て、どこか彼女たちに怖れを抱く。
何かが間違っている。これは普通じゃない。
幼少の頃よりなかば母親たちに冷め、一式という名も嫌い、
レズビアンに嫌悪感さえ感じていたといって過ぎない頃。
小学六年生の時、30代後半のホームレスに
公衆便所で処女をくれてやった。
その男が母親たちの陰口の槍玉に上がっていたからだ。
その他、近所のトランペット吹きの男。塾の講師。
あまつさえピザの配達人とさえ関係した。いずれも母親の
愚痴が切っ掛けだった。中学一年で既に学年男子7人の
童貞を抜き、海やガレージ、レンタルビデオ店の事務所、
養鶏場でまでSEXを堪能し、そのいずれも狡猾に立ち回って
公にはなっていなかった。これは抵抗運動だ。
動物はすべて男と女で括られ、雄と雌とで定義される。
自然の摂理に反する非生産的同性愛者に価値を譲歩する
気などさらさらなく、だからこそ、男を欲し証明したかった。
西川の『葵ちゃん』は軽蔑にも等しく感じている。
脳裏に霞むトゲのようなもの…。ボートは近い。