M2ED
01.
仄暗い仕事部屋はモニタから漏れ出る白色の蛍光に照らされて雑多な様相を淡く浮き上がらせている。ここは過疎化が進み打ち捨てられた個人病院を突貫で改装した研究所なのだが、彼女にとっては都会のしがらみから逃げに逃げて行き着いた先、最後の隠れ処でもあった。本や書類、標本、各種ディスクが無造作に散らばった湿気の濃い空間の中で年期の入った革張りの椅子の立派さが悪目立ちしている。座っているのはつい1時間前に30歳の誕生日を迎えた女、射襖 悠(いぶすま ゆう)だ。彼女はパソコンを打つときと本を読むときは決まって細い銀のフレームをしたメガネをかけている。あとは何も身に付けていない。週に一度の買い出し以外に人と会うことは滅多にないし、小高い山の上のしかも廃村の中というたいそう不便な場所でもあったので近隣と呼べる者もいない。電話も長い事受話器を挙げていないので繋がるかどうか怪しいくらいだ。当然ながら誕生日を祝ってくれる者もなかった。別段誰かに祝ってほしいとも思っていなかった射襖だが、実際こうして20代を終えてみると無性に寂しさが込み上げる。眼鏡を外しまぶた越しに眼球を押した。どうにも今日は捗らない。深呼吸してから身の丈に合わない椅子から降りて仕事部屋の隣へ移動し、無駄に大きな業務用冷蔵庫を開く。冷蔵庫の内部から発せられた冷たい光が彼女をライトアップし、その明暗が肉体の凹凸を明瞭にしてみせる。薬品や生態サンプルと一緒に突っ込まれていた缶ビールを取り出してふらふらと玄関へ向かうが、玄関といっても元は病院だから、使われる事のない受付の前に一つだけ待ち合い席が置いてある実に住処「らしくない」玄関だ。分厚い硝子のドアを開け、軋むシャッターを持ち上げると夜風と共にいっそううるさい虫の声が流れ込んでくる。下駄箱の上に置いてあるハンガーのようなカタチをした蚊除けの薬を持って、射襖は全裸のまま表へ出た。
待ち合いの長椅子を外に出して作られた休憩所。腐った木造の柱とトタン屋根はいったいいつの時代からあるのだろうか。蚊除けを柱に引っ掛けて、軽く表面を手で払った長椅子に腰掛けた射襖は、真っ暗な森を眺めながらビールを一口啜った。湿った空気が彼女の全身をなで上げていく。ふと、遠くで太鼓の音がしているのに気がついた。一つ山の向こうで祭りでもやっているのだろう。子どもの頃は夏になると決まって学校の友達と縁日に行ったものだ。夜店の食べ物はどれも好きだったが、翌日必ずお腹を壊していた。改めて自分を確認すると、当たり前の話だが、もう大人なのだと痛感する。ずいぶんだらしない体になった。左膝には二週間も前に作った切り傷がまだうっすら残っている。治りが遅い。元々細身の体型だったためダイエットなどしたこともなかったが、今は指で摘めるくらいの贅肉が腹回りについてしまった。・・・30歳。一緒に縁日に行った連中は皆結婚し母になっている。射襖は残ったビールの半端を喉の奥へ押し込む。星も月も見えない。しかし夜中だというのに雲はよく見えた。濃厚な深い緑色をした雲の層が大分下まで降りて来ているのがわかる。目線を下へ落とし、何の気なしに彼女は自分の両足を開いてみた、丁度股間越しに長椅子の座席の前面が見え、そこにイチョウの葉ほどの大きさはある蛾がとまっている。それは今の今まで彼女の股ぐらのすぐ下にいたというのに微動だにしない。蛾の存在にわずかばかり不快になった射襖は、蚊除け薬と空き缶を持って仕事場へ戻ることにした。シャッターを挙げてから再び振り返ったが、そこからでは、まだあの場所に蛾がいるかは確認できなかった。
02.
カロリーメイトのチーズ味をかじりながらモニタに浮かび上がる一番手前のウィンドウをクリックして画面表示を最大化する。そこには卵細胞の拡大画像とCGで作られたDNAの配列図、そして所々文章が青いアンダーラインで強調された解説が掲載されている。大学から派遣された当時21歳だった射襖は、日本におけるクローン技術の権威、江嶋 雄太郎率いる遺伝子の研究チームに参加し、数々の実績を上げていた。そもそも彼女がこの分野に踏み込んだ動機だが、それは両親の死にある。
彼女の家系は臓器の萎縮という奇病を煩ってきた。射襖家の血を引く多く者が特定疾患に認定され、若くして命を落としており、彼女自身は健常者であったが、射襖家にまとわりつくその影に、一種の呪いのようなものを感じてさえいた若き時代。その解明に向かって緒についたのが人工多能性幹細胞の研究である。奇病が遺伝的な問題であるなら、投薬よりむしろ臓器移植といった方法で呪いを断っていくほうが今後の応用が広いかもしれないと意識がシフトしていったのは23歳の頃だ。呪いに両親を殺された復讐にも近い執拗な想いが、彼女をクローン臓器の研究へと導く。先駆的な多くの科学者の知恵を借りて実験を繰り返し成果を上げていった。あと少しで何かが掴める・・・そんな気持ちが集中力を高め、取り憑かれたように研究へと没頭していく。
マウスの実験でクローン自体は技術的に壁はないことが実証されていた。だが、健康な肉体、強靭な臓器を作り出すとなると細胞レベルでの拒絶があり、クローン体にはなかなか反映されなかった。さらに人間の臓器として置き換え可能な素体を目指す以上、ヒト・クローン細胞との相性もある。体外受精自体が上手くいってもその受精卵が着床することはなかなかない。その壁を一気に崩す革命的な出会いをしたのが射襖が25歳になった時期である。
赤道に面した小さな島が折り重なり、国境さえも曖昧な未開発地域。その海底に突如異様な光景が広がった。ウミグモ、ヒトデ、ハオリムシといった生物達が、どれも大きなサイズで群生している場所が発見されたのである。その中でカラフルな種類のナマコ達が、異種族同士での交配により両親の特性を引き継いで繁殖していることがわかったのだ。射襖を含めた研究チームの数人はすぐに現地へと向かった。二週間の滞在による調査の結果、その原因は特殊なバクテリアにあると結論づけた。もっとも設備も少ない南国で二週間程度の調査が出した答えだから正確でなく、事実、後に射襖はバクテリアが原因ではなかったことに気付くのであるが、とにかくこの日を境にして研究はまた進捗をみたのである。
バクテリアに含まれていたその特異な染色体は、どのような進化で至ったのか強靭な生命力を有発し、外敵の多い深海の食物連鎖を狂わせるほどに保持者を増殖させた。海の底で偶然発見されたそれはまるで「魔法の杖」だ。一振りする・・・チームはそれがマウスにも作用することを学界に証明してみせた。クローン動物は老化が早く長生きできないという過去の総評は「弱さ・脆さ」をイメージさせたが、これからは元気で成長が早いというイメージに代わるだろうと研究員達は笑いながら話した。だが、射襖は研究者だ。それも、どうしようもないくらいに研究者であった。笑う暇があるなら少しでも細胞を睨み、ラボに籠って生命の源とは何かを追求した。件の海底にもあししげしく通い、サンプルを集め、戻っては実験を繰り返した。強靭な肉体を持つクローンは出来る。ヒトと他生物との体外受精も成功している。問題は、あの魔法の杖を使うと、受精卵が肥大する点である。先ほども少し触れたことだが、例えば人間も含めて哺乳類同士であれば、異種同士でありながらも精子と卵子を受精させることはそう難しいことではない。だが、その卵を着床させるのは極めて困難だった。これが魔法の杖のおかげで着床の問題は解決したが、今度は母体が持たないという問題が生じた。
射襖の結論は出ていた。マウスではダメだ。サイズが小さすぎる。人間と同じサイズの哺乳類を使用しなければ成功しない。クローン動物といえば羊や馬や牛が有名だろう。まさにこのサイズがうってつけなのだ。射襖の信念はいよいよ核心に辿り着こうとしていたそのとき、事件は起きる。ヒト・クローン製造の実行があるカルト集団によって公表された。それを受けて世界的なアンチクローンのムーブメントが吹き荒れた。テーマが道徳的に議論の多い分野であったため風当たりは常に強かった江嶋のチームも槍玉に挙がり、欧州を中心とした各国の慎重派が圧力をかけてきた。チーム解体こそ免れたものの最後まで異端の発言を続けた射襖は学界から追放され、27歳になった時には既に孤立したまま研究を続けていた。
チームにいた頃であれば羊や馬や牛も使えたが、今の状態では手に入れることは難しい。何より資金がない。追いつめられた射襖はついに曾祖父の土地にある廃病院に立てこもり、状況は今に至るのである。
03.
除湿器を回しながら再び実験結果を纏めていた彼女も一段落して、一息つくついでに届いていたメールに軽く目を通した。スパムが2件、そしてECアースという雑誌の編集者から校正の結果問題なしという報告が1件だ。射襖は残り少ない資金を海外の論文を翻訳する仕事などで繋いでいた。首を鳴らし、鼻をかんでから彼女は相変わらず全裸のままプラントに足を運ぶ。ところどころ剥がれた石タイルの床がひんやりと素足に気持ちいい。仕事部屋はかつて医者が事務所に使っていた場所である。受付は資料室に、寝室は診察室に作った。そして彼女自身が「家庭菜園」と呼ぶプラントは手術室にある。
ドアに貼付けられたパネルには手術中と書かれている。この程度の規模しかない病院では。わざわざ赤灯を備え付ける必要もなかったのだろう。この村では大きな事故もほとんどなく、手術室は主に出産のとき使われたらしい。今も昔も、命を生み出す神聖な場所だ。他の部屋よりガッシリとした扉を開くと、室内から熱気が溢れてくる。そこには彼女が育て上げた沢山の命の芽が吹いていた。ブラックライトに照らされた培養槽の中には異形の生物達が蠢く。ワンケースにつき1匹のものもあれば、横長の水槽に詰め込まれているものもいる。水圧調整まではできないため比較的浅い層に住む海生動物が多い。中でもナマコは深海で起きた現象を再現するのによい材料であったため多くを使った。常に彼等の生息環境を再現し続けるためのファンが回る音。ごぽごぽと聴こえる微かな彼等の吐息。ケースに指を触れると、頭がイソギンチャクのようなカタチをした細長いナマコがうなぎに似た動きで彼女の指をケース越しに追いかける。
温暖化の影響であの島は水没し続けている。もうこの生き物達を採集できるのはラストチャンスかもしれない。そう考えて一月ほど前に連れてきたのだ。それでも半分が死んでしまった。残された生物達はより強靭な生命力を持って生存している。手術室に窓はない。四方の壁にうずたかく積まれた生き物達。部屋の中央には手術台があった。射襖は台の上に寝そべって深呼吸する。手術台は少し斜めに、まるで横倒しにした車のシートのようで枕を高くしている。肘掛けもあり分娩台として使用できる足掛けもセット済みだ。足掛けに太ももを乗せると開いた股越しの先に湯沸かしポッドほどの大きさがある円筒形の培養機が置かれているのが見て取れた。ぼーっと眺めながら、急に明日行う実験について思いを馳せ、全身から汗がにじんでくる。正気を感じない魚類の光る白い眼球が彼女の女として出来上がった肉体を無関心に視姦しているのを感じた。天井を見上げて、ふいに乱れ出す呼吸に任せ、重力に従い横に流れる乳房をわずかに揺らす。
江嶋も他のメンバーもまだ気付いていない。いや、あの島々が失われようとしているのに見向きもしない人達である。きっと永遠に気がつくことなどないのだろう。魔法の杖、つまり生命力増強のメカニズムはバクテリアではない。バクテリアは最も影響を受けた一要素にすぎない。去年のダイビングで判明したこと、それは急速な生命力発達の瞬間を目撃したときからだ。射襖は生物の海中での変化を検証するため各種センサーの反応を記録していたところ、ゆらゆらと泳いだり停滞していた生物達が突如一斉に力強く荒れ狂い出した。生物の大群に揉まれながら彼女自身もまた肉体が熱く疼き、興奮していることがわかった。そのとき何が起きたのか? 紛失した記録も多々あったものの、残されたデータからついに正体を掴んだ。バクテリアに含まれた染色体。その遺伝力を上げる超微細菌が存在する。この細菌を射襖は「ゴーファー:生命増強菌」と呼称しているが、これこそが保持する生物を巨大で強靭で成長が早く死ににくいものにする根源であったのだ。対象生物の細胞を急速に改良し新たな生物へと進化させる。そして、その菌が大量に発生する要因が、あの地域に限定される特殊な共鳴環境にあった。数年前、つまり深海生物の異常繁殖が発見されるより少し前から海底の火山層の活動が活発化し、それによって生じる独特の音波振動がゴーファーの分裂と増殖を促し、結果宿主の細胞を改革して生命力を強化していたのである。この事実に気がついた彼女はすぐにこの実験室でゴーファーの培養に着手。さらに音波振動も特定し、その周波数をランドセルほどの大きさのスピーカーから出力してゴーファーを活性化させることにも成功したのだった。
ここまでは順調、順調すぎるほど順調である。この勢いを殺したくない。でも、どうしても次のステップに進めない。人間サイズの動物に受精卵を着床させること。理論上上手くいくはずなのだ。だが、実験で立証しなければ机上の空論になってしまう。山奥に越してみたが動物など捕獲できようもなく、他人の家畜を無断で実験に使うリスクも犯したくない。資金も時間もなく焦燥感にかられた射襖は、ついに常軌を逸した奇策に出た。かつて人間関係を放棄してまで射襖の血族に取り憑かれた呪いを祓おうと抗ったあの歪みを、この妄念に最終的な決断を迫るまでに増長させていたのかもしれない。彼女はどうしようもないほど研究者であり、同時に雌の肉体を有していた。
05.
8月も間近、ニュースサイトでは梅雨明けしたと発表していたように思えるが、天気は一向に晴れる気配がない。大きな荷物を抱えて勾配の急な山道を途中何度も休憩を挟んで上がっていく。これから自らに人体実験を行う。その間は出来る限り人とのコンタクトを避けたかった。今日は2ヶ月は食うに困らないよう物資の調達に行ってきたのだ。土砂で横倒しになった杉林が朽ちてキノコをびっしり着けている。そう、気のせいかもしれないが、ゴーファーを保持する生物達を持ち帰ってから、廃病院周囲一帯の生命活動が活発になっているかもしれない。虫も力強く鳴き、小動物も多く見かけ、最近は野犬を多数目撃するようになった。緑が濃く、命が濃い。ようやく廃村まで辿り着いた射襖は隣山の頂上に雲間から漏れ出す夕日を確認し、安心した。日没までになんとかついた。もとから視力の良くない射襖にとって森で夜を向かえたらまず家まで戻れない。遠雷を背に最後の力を振り絞って住処へと転がり込んだ。
業務用冷蔵庫に食料を詰め込み、シャワーを浴びた。仕事もあと二ヶ月はない。これで実験に集中できる。病院全ての窓には鉄製の雨戸がついており、一つ一つの閉まりを確認して回る。外からは休憩所のトタン屋根に雨粒がぶつかる音。しばらく続きそうだ。トイレを済ませ、いつものように全裸になると診察室を改造した寝室のベッドに掛け布団の上から横になった。深呼吸、自分の高鳴る鼓動がうるさい。雨。除湿器の音。実験機材以外の電気は切った。開けっ放しのドア向こうは石のタイルが敷かれた広い廊下があり、その突き当たりには重たい鉄扉、上にはパリパリと明滅を繰り返す非常灯がある。グリーンの灯火が一瞬一瞬ひび割れた院内を照らしている様はどこか物悲しい。射襖は見るでもなく宙を眺めながら、まだ空っぽのおなかをさすってみた。実験の用意は昨日のうちにすませてある。あとは実行するだけだ。よし・・・そう声に出して立ち上がった射襖は明滅する光のほうへと歩き出す。と、その時、立ちくらみ。膝が震えて目眩が止まない。全身から嫌な汗が出ている。射襖はこの感覚の正体を知っていた。恐怖だ。へたり込んだまま四つん這いになって床を凝視する。世界が回り、歪み、嘲笑っているようだった。我にかえった彼女は、小走りに冷蔵庫までいくと、一番アルコールの強そうな酒を煽る。しかし思わずその場に吐いてしまった。
自分は今から何をしようとしているのか。たった一つの親から貰った大事な体にいったい何を植え付けようとしているというのか。実験動物から急激に成長し母体から這い出す胎児の姿。そのおぞましさは目に焼き付いている。妊娠中のマウスの行動も異常だった。まるで胎内の変革に耐えられず発狂してしまったかのようだった。冷静になればこれはリスクが高すぎる。牛や馬で試すべきなのだ。・・・いや、そんな理屈は重々承知している。今や遅しと待ちかねている受精卵から発せられるエネルギーは今までの比はない。近寄るだけで凄まじい生命の波動のようなものを感じ、この山一帯を狂わせるほどの存在なのだ。それを体内に入れて繋がろうというのだから母親自身の肉体と精神に何も起きないはずがない。しかし、それほど危険であっても知りたかった。救いがたい探究心が身を以て成果を味わいたがっていた。射襖は怪しい足取りで手術室の前まで辿り着いていた。
ドアを開けると昨晩より更に深くて強い生命の力が溢れていた。ブラックライトに所々照らされた生物達、輪郭がぼやけている。蒸発した水分が霧のように充満しているのだ。眼鏡だけかけたまま全裸の彼女には、そうした命を伝達してくる要素の一つ一つをダイレクトに肌で感じてしまう。でもこれでいい。理解することもこの実験の目的に含まれている。一歩部屋に足を踏み入れると耳鳴りがした。嫌が上にも視点はあのポッドへと注がれる。ポッドにはサインペンで「-M2ED-」と書かれたシールが貼られている。彼女自らの卵子と他生物の受精卵第一号のM1は失敗に終わった。DNAは配列を改良した牛の精子とゴーファーを組み合わせ、それを受精させたのだ。その後の成長は目を見張るものがあったが残念なことに元々ゴーファーを持って生まれた生物と違い、拒絶反応が出て卵は自壊してしまう。次に行ったのが第二号のM2に最も強靭な生命力を持ち、数々の実験でも一番死ににくく、繁殖し易かったオニナマコの突然変異種との受精を行った。顕微鏡のレンズ越しの自分の新鮮な卵子が映し出され、そこにスポイトの中のゴーファーを飼うナマコの精を流し込む。受精はあっという間だった。ゼリー層をあっさりと突き抜けて、人間の精子より数倍巨大な胤が射襖の卵と混ざり込み、受精の瞬間、生命誕生の淡く赤い発光が確認され、急速に卵割が始まった。彼女の心に娘を牢獄に閉じ込め猛獣を放ち、無理矢理レイプさせてしまったような罪悪感がよぎる。みるみるサイズが膨れ上がる受精卵を顕微鏡から専用の培養ポッドへと移動した。そして用意していたスピーカーを両手にかかえポッドに向かって置くと、周波数を際弱にして音波振動を照射した。ポードから伸びたコードの先に備え付けられているモニタの中で数々のメーターが跳ね上がり、驚異的な数字を記録していく。キーボードのUPキーを指で押し続け周波数レベルを85から120まで上げた。それにより更に影響されたゴーファーの大増殖が卵の成長を促進し、針の穴ほどしかなかった受精卵をたった3時間でパチンコ玉ほどの大きさにしてしまったのだ。これが今から12時間前の出来事である。
05.
暗く霧の立ち籠めるプラントの床に青いビニールのシートが敷かれている。分娩台とポッドの置かれてた機材類の間にある狭い空間だ。そこまで来ると射襖はポッドから円筒形のガラスケースを抜いた。羊水と同じ色をした培養液の中に大きな杏飴ほどに肥大した受精卵が居座っている。それもただ丸いわけではない。所々節くれ立った空豆のような形をして、下のほうに短い突起が不規則な長さで並び何かを探しているようだった。母親だ、母親との結合を求めているのだ。これからコレの母親になるのかと思うと、この狂気の沙汰を一層に理解して固唾をのむ。射襖は分娩台へ移動し、そこに仰向け寝そべると、自らの両足を台の足置きに置いた。用意していた梱包用に用いられる太いプラスチック製のベルトで固定。これで股を開いたままこの位置から移動できない。背中を丸め半身を起こしたまま自分の腹の上で作業を続ける。慎重にポッドから取り出した円筒形のケースを透明のゴムチューブが伸びた挿入器にセットする。挿入器は開いた股の付け根に設置した土台に置かれる。彼女は不安と困惑とに可笑しな興奮状態にあり、膣をぐっしょりと濡らしていたため、挿入はスムーズに進行した。自らの性器に差し入れると冷たいゴムチューブはすぐに体温で温まった。震えて言う事をきかない指先を理性で捩じ伏せながら、ゆっくりと先端を奥へ導くよう入れていき、やがて子宮口まで来たことを感じ取る。あとは挿入器のスイッチをONにするだけだ。土壇場で躊躇いが生じた。しかし、ケースの中で身を捩る仔胤を見つめていると、ふと逡巡は薄れ、スイッチを押していた。
小さくブザーの音が鳴りながら、ケースの中の培養液が減っていき、一緒に空豆のような幼虫も降りていく。連動してゴムチューブを伝って彼女の中に生暖かい液体が流れて行きそれが子宮口に到着してぴゅるぴゅると胎内へ漏れ出す。ケースがカラになったのを確認してすぐ、射襖は透明のゴムチューブの中をゆっくりと進む受精卵の幼生体が自分の中に消えていくのを視認した。ゴム管の中、膣道を流れていく体感がある。そして管の出口に到着した幼生は、すぼんだ子宮口にぴたりとくっつく。母親の胎内の肉と幼生の躍動する肉が生で触れ合った瞬間、彼女の中の最後の警鐘が激しく鳴り出していたが、もう後戻りはできない。母体の中心に帰還できたことを悟ってか、幼生は子宮口を押しのけて“びゅるっ!”と音を発てながら勢いよく奥へ撃ち放たれた。“べちゃ!”と子宮壁の奥へへばりつき歓喜して暴れている。思わず喉の奥から甲高い悲鳴を漏らして腰が浮き上がる射襖。しっとりと濡れてウェーヴをかく黒髪が頬に貼り付く。うーうーと唸って何度も腰を上下するが両足は固定されているためまた元の位置に戻る。ずるんと抜け落ちたゴムチューブからどろどろ培養液が垂れ、彼女のそこからも同じ液体が流れ出していた。両手で腹の肉を鷲掴みにすると、異物がぐねぐねと動いているのがわかる。ひとしきり暴れたゴーファーの幼虫は、培養液が流れ出て子宮壁に直接包まれていきながら、あの触手を這わせてしっかりと胎内にしがみつき肉と肉をつなげようとしている。その間母親のほうは思い切り腹を殴り潰したい衝動を押し殺してバンバン分娩台を叩いたり、腹以外の部分を叩いて気を紛らわせる。激しい肉体的な、そして精神的な苦痛とも快感ともつかない衝撃が駆け巡りながら、やがて中で繋がった瞬間を感じ取り、変てこな嗚咽を漏らした。
06.
今まで自分の中に子宮があるなどと体感したことはない。しかし、今は信じられないほどに強く激しく、そして深くじっくりと染み込むように子宮と、着床した幼虫との繋がりを感じていた。乳首は痛いくらい突起して、呼吸が乱れる。幼虫が彼女の養分を吸い上げていく感覚にぞわぞわした。
ここからだ。着床して母体の栄養を吸い出した瞬間、まさにここであの音波振動を与えることが最も強靭な生命力を育てることになる。両足のベルトを解き、分娩台の下に音を発てて崩れ落ちる。まるで炎天下にフルマラソンをやりきったような疲労感。それでも力を振り絞って音波発生機まで這っていく。全身の痙攣が始まる。マウスのときもそうだった。時間がない。わずか1メートルの距離にようやく辿り着いた彼女は、スピーカーを両手足で抱きしめるように腹に当てて、そのまま先ほどのベルトを流用してスピーカーと自分の下半身を拘束し、何が起きても外れないようにした。下腹部で身をよじっている幼虫をスピーカーの圧迫で強く認識しながら、周波数レベル85に設定する。レベル85は影響の出る最初の数値だ。これを徐々に120まで上げいく。もし120に達する前に成長が異常化したらストップする。レベルが200を超えた場合、母体が持たないことは理論上算出されている。その微妙な操作をこの状態で操れるのか懸念があったが、タイミングは待ってくれない。射襖は覚悟してエンターキーを押した。
小刻みな振動と音がスピーカーから発せられ、それは密着していた分想像以上に大きく聴こえる。彼女は自分のどこからこんな声が出ているのかというくらいに奇妙な喘ぎをしながら、胎児が「命」を増していく灼熱の感覚に再び激しくもだえた。両足から胸のあたりまでスピーカーに括りつけられている彼女の動きはまるでだるまだった。びくんびくんと体を震わせ、腹と胸の肉を振動で小刻みに揺らしながら、そこらじゅうをごろごろと転がる。分娩台にぶつかり、水槽にぶつかり、勢い余ってパソコン台にもぶつかる。積まれていた機材が崩れ落ち、キーボードが落ち、その上にモニタが落ちた。するとモニタの周波数レベルが85からどんどんカウントを上げていることがわかる。UPキーが反応してしまっているのだ。
射襖は絶叫した。胎児の反応は数値の上昇に伴ってさらに激しく生命力を増加させていく。比例して母親である彼女の栄養が吸われ、力が弱まり、苦痛と快感も凄まじいものになっていった。血走った目でパソコンに手を差し伸べるが届かない。全身が痙攣し、力が入らず、ベルトの固定も外せない。周波数のレベルは530に達し、腹の底に響くような轟音の音波はまだ上がり続けている。射襖は絶叫からか細い奇声に変わり、唾液をだらしなく吐き出しながら、何度も床に頭を打ち付け、ひとつしかない眼鏡を割った。
音波のレベルが最大数値の1800に達したところで機材は煙を上げ、火花を散らし、ブラックライトは破裂、プラントの生物達は狂ったように暴れ体から複数の手足や器官を生やしたり、巨大化したりして水槽を破った。スピーカーに密着して最も影響を受けている彼女の腹の中はまるでビックバン級の生命爆発が繰り広げられていた。彼女の瞳孔は開き切ってから上にひっくり返り、失禁し、滝のような汗を流し、じっくり長時間苦しんだ後、事切れたように意識を失った。
07.
気がつくと半乾きのねばつく涙で滲んだ視界に重たい鉄扉が映る。床には吐瀉物。気を失っている間に吐いてしまったのだろう。もうスピーカーから音波は出ていない。今このプラントに動いている機材はないようで、まるで針が限界まで振れて弾けた古時計のようにぴたりと静寂に包まれていた。ふらふらと力の入らない手が薄闇を泳ぎ固定されたベルトを確かめると痺れて思うように操れない指先で解こうとするが、結局外すのに20分も使ってしまった。朦朧としている。自分の姿も視認できない。身の芯にまとわりつく重い違和感。床を這ってなんとか扉を開けると、すーっと温度が下がって気持ちがよかった。非常灯は相変わらず明滅して、まるで何事もなかったかのようだ。一旦咳き込んでから非常口のドアを開け表へ転げ出た。視界がぐるぐると回転しそのまま射襖の顔面の左半分が水没した。曇り空で雷の音が聴こえるが雨は降っていない。少し凹んだ所に建てられた病院なので、周りは池のような水たまりに覆われて、そこに落ちたのだ。全身の汗や失禁で汚れた体を雨水へ擦り付けると少し意識が洗われたような気がした。
どくん!
突然の不快な鼓動。水たまりの上へ仰向けになって頭を起こすとようやく自らの腹が見てとれた。腹筋の締まりがない彼女の腹は柔らかく、下腹部を手で揉むように掴むと、胎児のカタチをハッキリと確かめることができる。・・・大きい。たった一晩でどのくらい成長したのか。握りこぶしほどもなかった子宮が自分でも信じられないほど伸び広がっているのだ。胎児が寝返りをうつと彼女の腹がむくむくとうねる。射襖は絞り出すような悲鳴を上げて肢体を弓なりにたゆませた。バシャバシャと泥水の中をもがき、巨大な胎児の支配下に自分が置かれていることを嫌がうえにも悟っていく。なんというおぞましさだろう。肉体の苦痛はそれほどでもないが、精神的な苦痛はすさまじかった。まるで今やっと自分の半身が食いちぎられていることに気がついたような驚嘆の叫び。射襖はうずくまり、肥大した下腹部の異形を抱えて誰はばかることなく潰れるような声で泣いた。
この生き物は、あのトラブルのために母体に危険が及ぶレベルを遥かに超過した速度で成長している。子宮の中にしっかりと根を下ろし着床に成功したものの、母体が出産に耐えられるかはわからない。基準値の十数倍という馬鹿げた数値で発育させてしまったのだ。いまからでは堕胎もできないだろう。彼女の選択肢は産む以外に残されていなかった。
よろめきながら住処に戻り、まずシャワーを浴びた。終始腹の中の満足そうに寝返りをうつ異形の生物を感じ再び吐く。降り掛かる湯に揉まれながら、彼女は腹を抱え、小刻みに嗚咽を漏らし、自分に起きていることをなるべく考えないように浴室からぬるりと出た。四つん這いになってあの診察室を改装した寝室へ向かう。ベッドに潜り込んだ彼女は、なにもかも忘れようと眼をぎゅっとつむって眠気を待った。だが、体を落ち着かせじっとすればするほど胎児の活発さに気をとられ、とても眠れるものではない。また仮に意識が薄れ、睡眠に近い状態になっても絶え間なく胎児に精神を陵辱されていた。グロテスクな肉塊が夢の中で語りかけてくるのだ。人の言葉ではない、知性を感じない原始的な感情が流れ込んできて、彼女に欲望をぶつけてくるのだ。それは怒りにも似た熱情。世界で自分だけを愛せという脅迫にも近い要求。悲痛なまでに乞うてくる。それの母親となった射襖は、操られたようにベッドの上で喉の奥からデタラメな声を鳴らし、その様はまるで歌っているようにも見える。床に崩れ落ち、夢遊病患者のように酩酊とした動きで壁や家具の隅に体を挟み込んだり擦り付けたりした・・・いや、させられたと言うべきか。疲労して体が休もうとすると、今度はビクンビクンと全身の痙攣が始まり。過呼吸に教われ、発汗する。血走った目は宙を見つめ、か細い奇声を上げながらやがて気を失うのだ。そして当然のように彼女は行動ばかりでなく思考に至っても異常をきたしていくのだった。
08.
ヘドロだらけの黒い森の中、牛や犬、巨大な虫、海底生物、そういったものを彷佛とさせる肉塊に股を開いて交尾交配をし際限なく受精していく・・・そんな悪夢で一晩を越した。目が覚めてからもどくんどくんと脈打つ胎児に腹は震え、背筋が凍るような戦慄を抱きながら、質の悪いつわりで一晩に何度も吐いた。レントゲンで形状を確認したかったが、ここの設備では敏感な胎児にX線を当てることに躊躇いがあったし、胃カメラを挿入しての撮影にはライトを当てなくては見ることができず、それによる刺激も気になった。なによりプラントの設備も実験動物もあの事故で全滅してしまったのだ。常に弛緩した筋肉、移動は常に四つん這いだった。全裸のまま、ろくな料理をせず食材を貪る。骨の中がスカスカになっていくような、対照的に胎児はよく肥えていくような、そんな感触が彼女を苛んだ。皮肉にも急速に母性に目覚めていく肉体は、乳が張り、心身をより柔らかく、胎児にとって居心地の良い居住に変えていく。射襖はぼーっと自分の腹部を眺める。うねり、びくびくと躍動しているのをみて嫌悪しながらも、認めたくない愛おしさが込み上げてくる。そういえば膝の擦り傷がすっかり消え、眼鏡がなくともちゃんとものが見えるようになった。これもゴーファーの仔と繋がったことでの影響だろうか。
彼女の意識は判然とせず、体は怠く、人間を捨ててしまったような意味不明な鳴き声を発しているのに、逆に五感はより敏感になっているようにも思えた。食欲も猛省になり、ほとんど料理もせず素材のままかじりつく毎日。1日の感覚は麻痺し、どれくらいの時間が経っているかもわからないが、閉め切られた真っ暗な病室の中にいても、今が夜か昼かはなんとなく感じ取れる。ああ、また無容赦に胎児の感情が流れ込んでくる。食べるときも、寝るときも、いつ如何なるときもだ。それは無邪気でいて、あるいはそれゆえに猟奇的な感情でもあった。本来妊婦の腹は水風線のように曲線的に膨らむが射襖の場合は胎児の凹凸に従って微妙にでこぼこしている。そのでこぼかが身をくねるたび位置を移動し、その都度に彼女は不快感と恐怖で悶絶するのだが、胎児は母親のそんな悲痛を知ってかサディスティックにあえて暴れ困らせた。ところが彼女はそうして虐められ辱められるほどに、むしろ我が子への激しい愛情が沸き上がってくる。射襖は女である以前に学者であったと考えていたが、どうやら逆だった。かつて感じたことのない強烈なまでの母性が、この仔を孕んだことへの感謝と悦びを増長させ、研究や観察という命題をあっさりと希薄にさせてる。人間とは一人で個人だ。それがもう一人同居して...否、もう一人に支配され、主従関係は確立し、もはや「自己」なるものの認識も曖昧になって、ただ胎内のケダモノのなすがままとなりながら苦痛と恐怖と慈愛と快楽に芯から漬かっている。そんな日々が十日も経てば、高潔な精神を保つことなど不可能。
彼女はついに人間としての最後の自尊心を破壊され、雌の肉を有した奴隷にまで堕ちてしまった。
夜、まただ。また腹の底、肉体の中心部から射襖の心に語りかける声。命令。全身に汗を滲ませて彼女は目を覚ます。股の間をぐっしょりと濡らして、乳首を勃てながら、全身が敏感に反応していることがわかる。興奮している。激しい肉欲、理性が飛ぶほどの性衝動。シーツを噛みながら自分の指で必死に慰めるが欲情はエスカレートするばかり。呼吸を荒げ、下腹部を鷲掴みにして中の仔を揉んだ。胎児に刺激を与えれば与えるほど苦痛を伴う快感が増す。いつの間にか悩ましい声が喉の奥から漏れ出し、ベッドの下に転げ落ちると部屋中をせわしなく徘徊した。よだれが止まらない。今にイきそうなのにイけない。発狂寸前だ。張った乳房を指を埋めると母乳がほとばしる。吸われたい。このミルクを我が子に吸わせたくて狂おしい。射襖は居ても経ってもいられず非常口から病院の外に飛び出して四つん這いのままトカゲのような格好で走り回った。悲鳴を、いや動物的な嘶きを上げながら四つん這いになって走り回る真っ白な肉体。それは自然界の中にあっては不気味なほど不釣り合いなコントラストだった。腹の中が熱い、それ以上にアソコが熱い、どうにかして絶頂したかった。中から溢れ出す情け容赦なく猛り狂う生命力を何にでもかまわないから発散したかった。ゴーファーをこんな非力な女の身に納めておくことなどどだい無理な話だったのだ。あのマウスの異常行動の正体を理解した射襖だったが、もう手遅れだ。野犬の遠吠えが耳に入るや、彼女は形振り構わず真っ暗な森の中に突っ込んでいった。
09.
腹が膨れたがに股女の女が信じがたいほど素早く薄暗い森の中を這っていく。まるで物の怪。苔むした石の上でキョロキョロする射襖の、より敏感になっている裸体は山奥を突き進めば当然傷だらけになって痛みやかゆみを纏ったであろうが、その傷もゴーファーの力ですぐに跡形もなく消えてしまう。虫の鳴き声が何百何千と折り重なって鼓膜を震わせる。聴覚も鋭敏になっているのだ。
僅かな光が反射した射襖の瞳に映ったものは、暗い、地中から盛り上がった何か。蟻塚だろうか? 何かの巣に違いない。彼女と彼女の宿している存在を察知したのか、巣中、住人達の大群はいろめきたっている。キクラゲをびっしりとつけたそれは弾力があり、彼女はそこに覆い被さるようにして歪に膨らんだ腹を押し付けた。菌類の質感がぶよぶよと白く柔らかい妊婦の腹に押し当たり、胎児が反応する。四つん這いのまま前後運動をしながらどんどん腹で塚を押し込んでいくと、そこからぞろぞろと無数のヤスデだ這い出してきた。しかしそのおびただしい数のヤスデには目もくれず、今度は川を泳ぎ、木に登り、道無き道を突き進んだ。巨大な蜘蛛の貼り付く巣に突っ込み、産卵したてのカマキリの卵を全身に塗りたくって、ヒルに血を吸われながら、ほとばしる興奮を抑えられない。とにかく、自分がいったいどうしてしまったのか、わけがわからない。
ハッとして立ち止まった。焦り荒ぶる気性を感じ取る。近くに何かいるのだ。闇に身を潜めて確かめると、そこには一匹のイノシシがいた。イノシシは丁度凹凸の激しい木の根の隙間にいて逃げ場を失っていた。考える間もなく彼女はイノシシに飛びかかりしがみついた。かなりでかい。彼女と同じくらいのサイズがあるのではないか。野生の力は強く、彼女を振り落とそうと激しく暴れ、木の根の隙間の深い溝で彼女の肢体を弄ぶ。甘く、白く、柔らかい人間の女の、しかも妊娠している裸体など、その屈強なオスの、文字通りな猪突の前にあっさりと投げ飛ばされる。その後も荒れ狂うイノシシと隙間に閉じ込められた射襖は、何度も取っ組み合って絶叫した。母親として我が腹を守ろうとしながらも、股を開いてしがみついてしまう。このだらしなく孕んだ肉体が、野獣の主張を余すとこなく受入れたがっている。腹に乱暴され悲鳴を上げながらも何とかイノシシの懐に入り、下から全身を使ってしがみついた。イノシシの勃起したペニスがゴツゴツと愛液の洪水となっている彼女の花弁に当たって痛い。暴れ疲れたのかイノシシの動きが一端止まり、そこですかさず彼女はペニスを自らの中へと導く。イノシシは最初驚きながらも、彼女の両足にホールドされながら腰を振り、やがて本能に従って交尾を始めた。
激しいコックは膨らんだ腹の上からも容赦なく打ち付けられ、胎児は大暴れしている。この不細工な鈍獣は押し付けられた既柔らかい腹が既に内からうごめいて、射精しても意味のない雌であることを果して感じ取っていただろうか。細く伸びた陰茎が子宮の中に絡まって、じっくりと時間をかけた射精が行われた。胎児はその不快感にいっそう身をよじり母体に負荷をかける。約1時間続いた授精の儀式は二匹が繋がったまま脱力して収束。気がつけば周りに殺気が漲っていた。野犬の群れだ。このイノシシが目的かとも思われたが違った。彼女の甘い肉の香りに誘われたのだ。野犬は股を開いたまま一部始終を眺めている彼女に入れ替わり立ち代わり突っ込んで犯していった。中に出して子孫を仕込んだ充足を味わって、その間他の犬は射襖の乳房に歯をたてて母乳を舐め啜った。
犬が去った後、急激な天候の悪化によって雷雨になる。真夜中の森、どしゃぶりの雨の中で射襖はたった一人、生まれて始めての出産を体験した。
10.
不気味に上空を吹いて鳴らす風の音と微か耳に届く遠雷。人里から離れた山間の奥地に出産を終えた射襖の白色の肢体が転がっていた。あの豪雨の夜から丸一日以上、凄まじい苦痛と恐怖に悶えながら、気を失っては痛みのあまりすぐに目覚めの繰り返し、絶叫したかと思うと悲痛にか細い奇声を長々発したり、また何度も木の根に頭を打ち付け、自分の腕を噛んだりして激痛の分散を試みたりもした。胎児は必死に暴れて信じられないくらい腹の曲面がボコボコうねる。驚異的な成長速度で肥大したゴーファーの仔は、居心地の良かった聖域が狭くなり、その窮屈を怒って母親に抗議しているようだった。彼女は何度も自分の腹を思いっきり殴りつけたい衝動にかられたが、その拳は地面に向かい、痛めつけるのは常に自らの腹以外に限定された。ゆがむ腹部はあくまでも優しく愛でるように撫でて、外の世界を怖がらないでと心の中で我が子を励ましている。破水してからは、陣痛というより最早下半身を引き裂かれ焼けた鉄の棒でかき回されているような、いつショック死しておかしくないほどの激烈な感覚が続いた。嵐のような強い雨は夕方を過ぎても続いており、ぬかるんだ地面から這い出す極太のミミズ達と一緒に、一面に血と羊水をまき散らしてのたうち回った。深夜になってようやく雨が止むと、ついに胎児が頭を出した。狂ったように泣き声を上げるそれは、明らかに人間ではなく、人間の皮膚をしたナマコに不規則に手足の生えた、文字通りの化け物。その化け物は、頭が出てからしばらく肺に溜まっていた体液を吐き散らして絶叫していたが、その内あろうことか再び子宮の中へと戻ろうとしている。生まれて直後の胎内回帰。射襖はその異常事態に気がついていた・・・だが、何もせず行く末を見守る。彼女は本当は自分の手を突っ込んででも引き抜きたいくらい追いつめられていたが、それをしてはいけないような気がしたのだ。ヒヨコは自分の力で卵の殻を割って出てくる。ここで親鳥が手助けすると生きて行く力が弱まる・・・そんな話を思い出していた。母親の中と外の世界を繋げる肉の門は、驚くほど押し広げられても裂けることはなかった。化け物は母親の胎内に戻ってじっくりその保護を味わい、また外へ頭を出して確認し、彼女の腹はまるで寝袋の扱いだ。半身を外へ出して来てから、射襖は決してグロテスクな我が子から視線を逸らさなかった。産声を脳裏に焼き付け、初産のショックを五感の全てを使って記録しようとしていた。夜明け、まだ曇り空で風も強い。長時間かけて、ついに自分の力で出て来た仔は、臍の緒でまだ繋がったままながら、仰向けに寝そべった母親へ不器用によじ登り、左の乳房へ吸い付く。野生動物の雌は、母乳を吸われることで初めて母性に目覚めるという。射襖もまた、落雷にうたれたような授乳する感触で爆発的に母性が湧き上がっていく。今もこうして乳を飲む仔を抱きしめると、感動の涙が止まらない。雨に流されたとはいえ水たまりはまだ彼女の出血によって赤く濁っていた。樹齢の高い大きな木の根の隙間から立ち上がり、胎盤を抜いて、我が子を抱きながらふらふらと歩き出す。あれほどの苦しみも、今は素晴らしい快感だったような気さえしている。もう一度、味わいたい・・・早くもそんな願望が胸をよぎった。
11.
この化け物の仔には「命」と書いてメイという名を付けた。メイはみてくれに似合わず甘えん坊で、ちょっと離れるとすぐ泣き出して射襖を呼び付けた。その度に抱きしめキスをして母乳を与える。彼女もまたミルクを一生懸命吸っている我が子の姿に恍惚となり、片時も離れようとしなかった。授乳時間が頻繁にあるためいつも裸だったが、一度パンツだけ履いたことがある。その時のメイの嫌がりようといったらなく、常に母親の素肌に密着して抱かれていないと薄い布一枚でも不愉快らしく、それからは射襖はもう一度も衣服を身につけていない。最初は猫程の大きさだったメイも一週間でその三倍にまで成長し、彼女の力でずっと抱いていることが難しくなってくる。それでも抱いていないとだだをこねるので、彼女は浴槽に仰向けで寝そべり、浴槽の反り返りを背にメイにとっての肉のベッドとなる。浴槽を使うのにはもう一つの利点がある。メイは体の両脇にあるフシから分泌液を流し、また涎を垂れ、南米の植物のような特有の悪臭を放っている。要するに洗いやすいのである。今もこの浴槽で小さなイソギンチャクのような口をタニシが苔を食むみたく起用に吸いつけて彼女の母乳を飲んでいる。もうすぐ満腹になればそのまま眠ってしまうのだろう。射襖は慣れない子守唄を歌って、両手両足でしがみつく格好で、しかしあくまでも優しく包み込むように、メイを抱きしめた。
一ヶ月後。メイの体長は射襖に迫り、また体重は約60キロと成人男性程の重さに育った。それでも彼女は狭い浴室で巨大な我が子の敷き布団をやっている。まだ肉や野菜は食べていない。彼女の母乳だけでここまで肥大化してのである。メイは食欲旺盛で、音を立てながら乳をしゃぶり込み、揉みしだき、強い吸引力でミルクを飲んでいく。ゴーファーの力なのか我が子の要望に従い乳牛のような母乳生産力で彼女も応えたが追いつかない。なんとかミルク以外のものも与えようと努力した結果、オートミールのような柔らかいものを母乳に混ぜて与えることで克服できた。
二ヶ月後。体長は射襖を超え、体重は100キロに達していた。声も野太く、色も黒みがかって、どことなく萎えている巨大な包茎の男性器に似ている。もう浴槽には収まらず、それでも彼女は浴室のタイルの上に実験用具のウォーターマットを敷いてメイの敷き布団をやっていた。つぶれたカエルのような不格好な姿で寝そべって招き寄せると、メイがずしんとのしかかってくる。そして、彼女の股間にメイのイチモツが突っかかる。そう、メイは雄なのだ。メイはつい先週精通していた。それは調べたところ一匹一匹が僅かに大きいことを除けば人間の精子と変わらない。ただ、頭が二つあったり歪んでいたりする奇形精子が非常に多いことが気になった。でも、それは問題じゃない。射襖は察していた。もうこの仔には性欲が芽生えていると。そして、いずれメスへの肉欲を目の前にある穴で処理し始めるに違いない。それでも彼女は距離をおかなかった。より深く近づいて、息子を愛し、あの出産の感動への期待感を膨らませるだけ。
12.
射襖の去った後、迷走し続けた学会にある論文が寄稿されていた。通称「M2ED」と呼ばれるそれは、一部のオカルト雑誌にしか取り上げられず、脚光を浴びることなく失われる。射襖は今日もオフィスで翻訳の仕事を続けながら、ふと霧掛かった都市を一望していた。その深く都市を飲み込んだグレーの色彩が彼女の胸中に懐かしさを去来させ、いてもたってもいられず、彼女はコートを手に夜行列車へと乗り込んだ。都会では見れない不気味な蛾、濃密な空気、間違いなく「私たち」の故郷が近づいていく。まだ暗い内に目的地の寒村に到着した射襖は、スーツと低いヒールを履いたまま、彼の山を登り始める。早朝薄暗い霧の森、虫と鳥の声、茂みに分け入って、ストッキングを傷だらけにしながら、ついにあの廃墟の病院へ到着した。中はカビ臭く静まり返って既に電気も来ていない。もう何年も無人のままなのだ。と、その時、何か大きなものが動く音。外からだ。思いを馳せて病院を飛び出した彼女の瞳に、大きな影が映る。森の隙間をゆっくりと移動するそれは、紛れもなく我が子だった。メイの後ろには大きさの異なる異形の仔達が列をなし、そして静かに森の奥へと消えて行った。メイと彼女との間には5匹の仔がもうけられ、さらにその5匹の内の2匹と彼女の間で各1匹ずつ仔が産まれていたが、さっきの影は、それよりも多くの数が確認できた。またあの群れに身を投じて子供を産みたいという願望はあったものの、もう彼女は年齢的にも体力的にも出産の難しい体になっていた。それに、彼らは環境に適応し、子孫を残していっている。もう母親は必要ない。ため息をつき、射襖は都市社会へきびすを返した。
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