<さかあがりの森・少年抒情譜>
01
そして今夜も、僕の眼前に立ちはだかる白く艶かしい獣が、
好奇の視線を向けながらゆっくりと近づいて来た。
後ろから頭の皮を引っ張られているような細く吊り上がった目と
左右へ広がり続ける口の端っこが、一層彼女を面妖に映し出す。
暗く静まり返った部屋の中を、素足の裏がひやりひやりと
フローリングの床を撫でている音がこだまして・・・
僕は、ソファーの上で無防備に彼女の牙を待っていた。
都市部から少し離れたところに、僕の通う中学校がある。
元は女子校だったらしいが、3年前から共学になった。
そのためか男子の割合は女子に比べて少なく、
僕のクラスも
28人中男は5人しかいない。
小学校の時分とは違うのかもしれないけど、比較的男子は男子同士、
女子は女子同士でグループを作る傾向があると思う。
男子が少数ということは、その少数のグループに入れないと、
孤立するような形が出来てしまうもので、
僕はその典型だった。
男子の中でも不良っぽい大槻 昌吾(おおつき しょうご)が
僕のクラスの男子グループのリーダー的存在になったのだけれど、
僕は彼の行動に馴染めなくて、距離を置くようになった。
その代わりクラスの女の子達とは普通に話せて、
それで問題はないと考えていた。
そう、あの日、忘れもしない4月21日の水曜日。
2年に上がって、あの大槻と一緒のクラスになってからだ。
教室の後ろ、大槻が僕の目の前で女の子の髪の毛を掴み、
そのまま彼女の頭を掃除用具の入ったロッカーに
ぶつけているのを目の当たりにして、僕は驚いてすぐ止めに入った。
「何があったのか知らないけど、女の子にそれはやりすぎだよ」
きっと声は震えていたのかもしれない。
大槻は僕を睨みつけて凄む。
「あ? 何? 文句とかあんの? おまえ関係ねーだろ」
「そりゃ関係はないけど、そんなの見ちゃったらビックリするし・・・」
「だから何? おまえ邪魔なんだけど、行けよ、どっか」
「とにかく何があったか聞かせてよ、何が悪かったのか・・・」
言い終わるより先に大槻の手が僕の顎を鷲掴みにしてた。
勢い余って横の黒板に後頭部をぶつける。
「何でおまえに話さなきゃなんねーんだよ、なぁ、
おまえやっちゃうよ、マジで」
泣き出しそうだったけど、僕は大槻から目を離さなかった。
中学生なのに産毛の髭が鼻の下に生えていて眉は太く眉間に皺がよっている。
目は少し離れていて小さい。茶に染めた髪は短く、襟足だけは長い。
大槻には聞いただけで彼女が何人もいる。
正確には彼女は一人だけど、遊び相手が他にもいるということらしい。
こうして女の子に暴力を振るうことも、大槻と彼女達双方の
日常的なスキンシップとして許されている感じだったが、
僕には納得のいく情景ではなかった。
他のクラスの女の子が先生を呼んだらしく、その場は事無きをえたのだが、
僕はしばらくわだかまりを抱いたままだった。
大槻はふてくされて学校を出て行ったようだったが、
髪の毛を掴まれていた女の子は、顎をさすっていた僕に声をかけてきた。
「あんたさぁ、名前なんだっけ」
「え? 馳 皐月(はせ さつき)だよ。えっと首洗さんだったよね」
「首洗 彪(くびらい ひょう) 、あんた顔だけじゃなくて名前も女みたいだね」
「あ、そうかな、やっぱり」
「あのさ」
「ん?」
「あーゆーの迷惑だから、もうやめてね」
彪は一言そう残して素っ気なく僕から離れていく。
ため息をついて、きっとこれで今回の一件は解決したのだと思っていた。
その時の僕はまだ、彼女がどれほど恐ろしくおぞましい存在なのか
知らなかっのだから。
02
父さんは僕が物心つくより早く肺を病んで他界してしまった。
僕には父さんについての印象が何もない。でも、ちっとも寂しくはなかった。
僕には母さんがいた。
こんなことを言うとマザーコンプレックスだと思われるかもしれないけど、
僕はあれほど素敵な人を他に知りません。
母として、人として、女性として、優しく、豊かで、奇麗でした。
母さんはフラワーコーディネーターの教室を開いていて、
沢山の生徒に慕われていたのをよく憶えています。
父さんが残してくれた二階建ての白い家へ、よく生徒さんを遊びに連れて来て
僕を可愛がってくれました。
また、母さんは敬虔なクリスチャンで、毎週日曜日には教会に行きます。
神父様の話を聞いて、聖書を朗読して、賛美歌を歌うんです。
子どもには日曜学校として聖書の絵本を呼んだり歌ったり、
その後レゴブロックで遊んだりするものなのですが、
僕はいつも母さんの隣について、大人達と一緒に難しい説教を聞く。
人は生まれながらにして罪を背負っているだとか、隣人を愛せよとか。
創世記から始まる旧約の比較的最初にあるアダムとイヴ。この物語には
今でもドキドキするんです。
そこには二人の男と女しかいなかった。
二人は裸で暮らしていたのだけれど、ヘビに唆されて禁断の果実を口にしてしまう。
そのことで二人は羞恥心を憶え、裸でいることを恥ずかしいと思うようになる。
そして、神の怒りに触れ、女は子を産む苦しみを与えられた。
僕はよくお母さんにこんな質問をして困らせたことがある。
「神様は全てをお作りになったんでしょ? じゃああのヘビも果実も神様が作ったの?」
母さんは困ったような顔で笑っていた。
全知全能の我らが父。唯一神。主(しゅ)は絶対であり完璧な存在であるのに、
なんでヘビというギルティーと果実というタブーが必要だったのか、
ずっと理解できなかったんです。
首洗 彪に出会うまで・・・。
聖書が教えるのは人間の誕生や歴史ではなく、人間の本質でした。
自らの卑しさ醜さを悔い改めて、正しい姿を教える教典。
モーゼもザアカイもゴリアテも、僕たちにそれを教えるため「物語」という手段を使って
それぞれの役割に殉じ、戒めてくれていたのです。
だけど、
今となってそれを理解しても、神の怒りはもうすぐ僕たちに下るはずです。
僕は彼女と、禁断の果実を口にしたんだから・・・。
03
あの日、夕飯のおかずを求め母さんと近くにあるOKストアへ買い物に行きました。
母さんはいつもレジで店員がビニール袋をカゴに投げ込むのを制止し、
自前のゆったりとしたバッグに買い物の品をいれる。
荷物持ちの僕としては、そのバッグが主婦臭くて少し恥ずかしかったのをよく憶えています。
行きに小雨だった天気も、ストアから出ると上がっていて、雲間から光がさしていました。
家に向かう途中、母さんはまたガールフレンドの詮索を始め、
「好きな女の子とかいないの? 教えてほしーなー」
なんて拗ねた子どもみたいな口調で言うのです。
母さんの言うことのほとんどが正しかったと思うんですが、
僕が女の子にモテているに違いないという予測だけは外れていました。
僕は昔も今も、女の子にモテたことなんてないし、たぶんこれからもない。
ただ、首洗 彪からの精神的な蹂躙を受けている事を、
モテている・・・と解釈するならそうかもしれませんが。
僕は、嫌われているとは言いたくなかったので、適当にはぐらかして答えていました。
「キミぃ、卑屈になるなよ」
母さんはニコッと笑って雨粒の付いた閉じたままの傘をくるくると回してみせていました。
これが最後の言葉でした。
柊の植え込みを横切って自宅が見えた瞬間。
轟音とともに母さんは消え、代わりに「影」が放物線を描いてすぐ横のアパートへぶつかっていました。
気がつくとアスファルトに黒いタイヤの跡が付いていて、それを目で追うと、
その先には白い車が停まっています。
車は少しの間停車していたかと思うと、すぐに走り出して行ってしまいました。
放物線を描いた「影」の先、アパートの電気メーターが列んでいる壁に、母さんは落ちていました。
そこからの記憶はかなりしばらくの間あいまいです。
母さんがひき逃げにあったことを理解したのも一週間近くたってからでした。
人は車に轢かれると、まるで漫画のように飛ぶもので、それがいっそう現実味を希薄にしました。
どのくらいだろう・・・自分でも信じられないような声で叫び続ける日々が続きます。
泣くとか悲しむとかではなく、わけがわからず、ただ奥から沸き上がるものが押さえられなかった。
たぶん・・・あの時、僕の良識も、同時に轢死したんです。
04
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。
もしなかったなら、あなたがたに言っておいたでしょう。
あなたがたのために、わたしは場所を整えに行くのです・・・」
ヨハネの福音書、14章第2節からの朗読だった。
前髪の少ない眼鏡をかけた若い牧師は、母さんの告別式を抑揚を付けながら取り仕切る。
喪服に身を包んだ多くの方が参列し、とりわけ目を引いた髪の真っ白な品のいいお婆さんが
困った事が会ったら何でも言いなさいと励ましてくれました。
皆で賛美歌の541番を歌い、僕のたどたどしい挨拶を終えると、
徐々に足腰の力が抜け、抱える母の遺影が重く感じ出す。
「では、これから献花に移りたいと思います。キリスト教でこれは「死」とは違うので、
献花の際の御拝礼はお慎みくださいますようお願いします」
オルガンの音が堂の中に奏でられ、
白く尖ったカーネーションを櫃の前に置いていく人達。
涙を隠さない母の教室の生徒さんたちが何人も僕にお辞儀をしていました。
きっと、僕が死んでも、こんなに悲しんでくれる人はいないだろう。
母さんは、僕が思っていたよりずっと多くの人に愛されていました。
式が終わると、牧師が屈んでこう言います。
「お母さんの信仰は立派なものだった。お母さんは死んだんじゃない。
主(しゅ)の御心に救われたんだよ。新しい肉体を与えられ、
痛みも苦しみもない国へ行ったんだ。とても素敵な場所だよ」
痛みも苦しみもない国・・・僕にはそこが、なぜだかちっとも素敵な場所に思えなかった。
母さんのいない家。独ぼっちの家。
どのくらいの日々だったか判然としないくらい、一日中天井を見ていました。
家の電気をつけるのも忘れ、食事や風呂も忘れ、無気力な、埋めがたい喪失感に苛まれていました。
でも、ふと母さんの写真を探しはじめ、その時、母さんのロザリオを見つけてから、
僕は、天国で見てる母さんに心配をかけてはいけないと、学校へ復帰する決意をしたんです。
努めて平静を装い、登校すると、クラスの様子が変わっていました。
僕に対して誰一人話しかけてはこないし、目も合わそうとしない。
その時は、母さんが逝った事情を察してくれているのかとも思ったのですが、違いました。
教室に大槻が入ってくると、僕が登校していることに気づき、席を取り囲んだんです。
「出た出たキモいのが、おめー何学校来てんだよ、おい!」
「僕…オレはここの生徒だから学校に来てるんだよ」
因縁をつけてくる大槻に対し、目を見ないようにして僕は鞄から教科書を出そうとしたが、
ガッ!
と大槻の足が僕のイスを勢いよく蹴って、僕は床に転がった。
クラス中の女子がクスクスと笑う声が聞こえる。
大槻の後ろから彼女が現れる。
首洗 彪だ。
「馳〜、アタシしってんだよね〜、あんたが何やってんのか」
見下ろした彪の目は小動物を嬲って遊ぶ猛獣のそれでした。
「やってるって・・・何が」
僕は怯える内心をねじ伏せて強気に見せる。
彪はニヤニヤと笑って、その口から悪意に満ちた言葉を吐いた。
05
「あんた宗教やってんでしょ?」
宗教をやっている。
その意味が理解できず、僕は素直に分からない意を伝えた。
「とぼけてんじゃねーよ、知ってんだぜ、オマエがやってっこと」
大槻がズボンの両ポケットに手を突っ込んだまま顎を向けて威嚇する。
何が理由でそうなったのか理解できないまま、その日は一日、
始終嫌がらせを受けたり、それを見ながら無言で笑われたりしたんです。
この日を境に「いじめ」が始まりました。
最初は言葉の暴力や持ち物への悪戯など典型的なところから。
その頃までの僕だって、過去に虐めらしいことを
受けてきたこともなかったわけではありません。
しかし、これほど陰惨で辛辣な体験はありませんでした。
机や教科書、うわばきなどの落書きから推測するに、
どうやら僕の母親はカルト教団「みつかいの家」の勧誘員をやっていて、
それを手伝って僕も、銅製の御神体を高額で売りつけていたという
根も葉もない噂が原因のようでした。
実際そのカルト教団に一家離散まで追いつめられた生徒がいて、
今回、僕の母が亡くなったことで悪行の数々が明るみに出たと・・・
返す返すも非道い話です。
なぜそんなデタラメなことになったのか?
僕が学校に来られなかった間、
もはや話は収集のつかないところまで膨らんでいたのです。
僕はやってない!
何度もクラスに冤罪を訴えたのですが、耳を貸す生徒はいません。
のみならず、教師の間でも僕の主張を懐疑する人が出てきて、
5月も終わりに近づく頃、
僕は完全に孤立していました。
母親を亡くした僕への同情も少しはあったのでしょう。
率先して僕を攻撃する人は多くなかったですが、
助けてやるに値しないという侮蔑の眼差しも少なくはありません。
それほどそのカルト教団は残酷無比であったのです。
被害者の怒りは凄まじかったのですが、教祖を含む幹部連中は国外へ逃亡。
「みつかいの家」は既に解体し、当事者以外に実態を知る者はありません。
極めて非人道的な修行を強いていたらしく、
そのイメージだけは校内に拡充していきました。
憎悪を向けるべき相手が四散してしまった今、
僕はその矛先を一点に負うこととなってしまったのです。
大槻達の執拗な侮辱にも耐えました。
恐喝やパシリなどの命令に従わなかった僕への攻撃は
日に日にエスカレートしていきますが、登校拒否はしませんでした。
ここで逃げたら、この滅茶苦茶なデマを認めることになると思ったんです。
そんな日常の放課後、体育館の用具庫へ連れて行かれた僕は
大槻たちからリンチを受けたのです。
裸にされて、押さえつけられて、バスケのボール等で殴られました。
何かのアニメのテーマに合わせて、僕の顔や腹に思いっきりボールを打ち込む。
僕が呻いて咳き込むと「キモい」とか「馳菌がうつる」とか言って笑ってました。
この状態に気がついている他の生徒が体育館の方にいましたが、
いつものアレかという具合に、気にするでもなく、見ぬ振りを決めています。
皆にとって僕は悪者であり、僕を殴る事は正義の行いでした。
大槻たちは、さぞやいい気分だったんでしょう。
ニヤニヤしながら見ていた彪が、僕の首からロザリオを引きちぎる。
それは母さんの形見で、肌身離さず、
どんなに辛いときも勇気をもらっていた大切なもの。
「やめろ! それに触るな!」
思わず彪を怒鳴ると、すかさず大槻が僕の顔面を踏みつけて黙らせようとしてきます。
でも、こればかりは黙っていられず、今までの鬱憤を晴らすように捲し立てました。
「それは僕にとって命くらい大切なものなんだ! 乱暴に扱っていいものじゃない!」
彪はドブネズミのようにロザリオを摘んで、
押さえつけられて動けない僕の眼前に垂らしながら、ひらひらして見せる。
「ほら、どうしたの? あんたの神様はまだ助けてくれないの?
こんなの路上で300円くらいで売ってるやつでしょ? 今まで信者に幾らで売ってたわけ?」
「なんで…首洗さん…。僕は大槻に暴力を振るわれていたキミを助けたいと思っただけなのに…
なんでこんな非道いことをするんだよ…、頼むから…、それだけは返して…」
僕に呼び捨てにされた大槻が再び僕を蹴りとばす。
「てめぇ〜、誰に向かって偉そうな口たたいてんだコラァ!」
大槻はタバコに火を点けると、そのじわじわと赤く燃える先端を僕へ向けた。
「根性焼きで「ちんこ」って入れてやるよ。風呂入るたんび口のきき方後悔しろや、一生なァ!」
「もうやめなよ!」
突然、優しげで、でも強い女の子の声が聞こえました。
あの時、僕を助けてくれたのが、南 百合子(みなみ ゆりこ)さんだったのです。
06
南さんは同年代の女の子の中では一番大人びて見えました。
クラスのアイドルというと言い過ぎかもしれませんが、
とても美人で、頭が良く、ピアノが上手でした。
どことなく面影が母さんにも似ていて、合う度に僕はドキドキしてしまう。
その南さんに、よりにもよってこんな姿を見られるなんて…
僕は思わず彼女から顔を背けていました。
「馳くんだって自分が何をやっていたのか分らない被害者かもしれないんだよ!
いくらなんでもこんなのやりすぎでしょ!」
そう言うと大槻は眉間いっぱいにしわを寄せて
「あ〜? 南〜、おめーは関係ねーだろーよー」
と一瞥くれたが、南さんは意に介さず僕の手をとり、
「もう行こ、馳くん」
と言って勇敢にもその場から僕を連れ出したんです。
もしあのまま誰も現れなかったら、僕の体には一生消えない猥褻な火傷が刻印されていたでしょう。
ただ、母さんの形見のロザリオは奪われたまま。
翌日すぐに彪を問いつめたのですが
「あんな安物のダセーの、捨てたに決まってんじゃん。
何? どこに捨てたか教えてもしいの?」
と女王様にでもなったかのような目で僕を見下し、あれをやれこれをやれと命令してきました。
勿論、僕はそんな命令には従わなかったんですが、やはり自分の力だけでは見つける事ができません。
「(神様、どうか助けて下さい。母さんのロザリオは神様への信仰の証でもありました。
どうか戻ってきますように。そして、どうか彼らへの憎しみを消してください。
誰も恨んだり呪ったりせず、すべてを許せる心を、僕に与えてください)」
毎日のように祈りました。
教師も近隣の大人達も、誰も助けてはくれない。
せめて神様に祈る事しか僕にはできなかったんです。
6月の中旬、結局その頃になってもロザリオは見つかりません。
それでも僕は、この地獄のような毎日も、南さんの存在を救いに正気を保っていました。
南さんはほぼ唯一僕を人間として扱ってくれました。
これは後になって知ったことだったのですが、
職員室で教員達が僕のあだ名をネタに笑い話をしていた時、そこに釘を刺してくれたのも彼女でした。
あんなに過酷だった学校が、南さんに会えるかもしれないと思うだけで我慢できたんです。
思えば、あれが初恋だったのかもしれません。気付く余裕なんてなかったけれど・・・。
噂はついに学校を飛び出して、母さんとの大切な思い出が詰まったあの白い家にまで飛び火しました。
キモイ、死ね、という短絡的で幼稚な落書きの他、拝金主義者、人殺し、社会のゴミ、変態教団、等
明らかに大人が書いているような言葉まで、家の壁に殴り書かれていきました。
手首を切って詫びろというカミソリの入った封書。
窓を割られるので締め切った雨戸。
いつの間にかゴミ捨て場にされた庭先。
コードを抜いてしまった電話機。
一番辛かったのは、母さんのフラワーコーディネーター教室の生徒さんたちが
犯罪者だとは知らなかった。あんなにいい人に見えたのに騙された、と、
噂を真に受けて怒りの手紙を送って来たことでした。
僕が苦しめられるのならまだマシ。
母さんを罵倒される都度、僕は、心を引き裂かれるような想いに苛まれるのです。
07
7月、土砂降りの朝。
正門から校庭へ続く途中の巨木にいつもと違う景色がありました。
それは、ズボンをずり降ろされて体中に油性マジックの低俗な落書きをされた僕。
用具庫の緑のネットをロープ代わりにして木に括り着けられ、殴られ無惨に晴れ上がった顔は、
登校してきた生徒達に白い目で見られているのを窺っていました。
傘をさしながら立ち話を初める女子達もいれば、
「一発ヤらしてーーー!」と僕の体に書かれた落書きを大声で読み上げて笑いをとっている男子もいる。
その後に来た教師達に木から降ろされたのですが、すぐに家には帰してもらえず。
生活指導室へ連れて行かれました。
散々見せ物になった挙げ句、大人達の1時間におよぶ愚痴を聞かされる。
大槻達は10分かそこらで解放されたのに、なぜ僕がこんなに長時間説教を聞かなければならないのか。
教師の言うには、おまえも悪い、もっと協調性をやしなえ、自分ばかり被害者だと思うな、
親のことはしょうがない、歯向かってばかりいないでもっと分り合うよう努力しろ・・・そんな話です。
疲労して、全身痣だらけの僕には、その声の半分も耳に届いていませんでしたが。
そして、
朦朧としているのは、ただ虫の息だったからだけではありませんでした。
怪我よりずっと納得のいかない、不快な気持ちで頭の中が混乱していたんです。
「でよォ、あの南がまた処女でさ、ひんひん言ってしがみついてくんのが可愛いんだ」
「マジかよ、チョー羨ましんですけど」
「もう他の女とかどうでもいいね、俺」
僕を縛り付けるときの大槻達の会話でした。
大槻の話では、あの美しく聡明な南さんが、大槻の女になったというんです。
あの粗暴で冷徹な大槻と・・・そんな話、俄に信じられるわけがありません。
「南さん!」
僕は先生からようやく逃れて、すぐに南さんに声をかけました。
「こ、こんなこと、その、不愉快に思うかもしれないけど・・・大槻と付き合うって本当なの!?」
南さんは、雨上がり西日の射す廊下でゆっくりと振り返りながら、あの優しく強い声で
「そうだよ」
と答えた。
「馳くん、傷、大丈夫? 昌吾、ひどいことしたね」
「大槻のこと昌吾なんて呼ばないでくれ! あいつは女の子に暴力を振るう最低な奴だよ!
彼女以外の女の子と平気で、その、そういうこともしちゃうし、だから・・・」
「知ってるよ。でもね、好きなの、あいつのこと・・・ごめんね」
僕には理解できなかった。
「南さん、何か、弱みを握られてるんでしょ? 南さん奇麗だから、無理矢理彼女になれとか…」
「怒るよ馳くん。私はちゃんと自分の意志で好きになったの。
最初は強引な迫られ方したんだけど、その内、あいつの弱さとか見えるようになっちゃって。
私が一緒にいてあげながら、ちゃんとさせようって思ったの。
だから、今は無理かもしれないけど、いつかあいつのこと許してあげて・・・」
ひぐらしの声がかなかなかなと夕暮れの住宅地に鳴いていた。
僕はその日の下校途中で絞り出すように泣きました。
母さんを失ってから、枯れるほど涙を流したはずなのに、嗚咽は止まりませんでした。
最後の希望が消え失せて・・・
僕は信念を捨て、登校拒否になりました。
08
警察が僕の家にやってきたのは夏休みの前の暑い日のことです。
ゴキブリが床を這っている。ハエも飛んでいる。
電気もガスも水道も止められ、外では悪徳宗教は出て行けという近隣住人の声。
生きる希望を失い、食事もせず、風呂も入らないで、
もはや、傷ついていくこの思い出の家に閉じこもっているしかない…
そんな僕を、警察は重要参考人として警察署まで連れて行きました。
容疑は殺人。
僕が人を殺したというんです。
無気力にただ閉じこもっていた僕がいったい誰を殺せるというのでしょう。
三日間の勾留。
青くやつれた僕は、胃が弱っていて拘置所の食事が喉を通らず、不安定な精神状態のところを、
不定期に尋問され、どんどん衰弱していきました。
本来未成年者にこれほど長期の取り調べはないそうですが、僕は孤児になってしまったこともあり、
警察は思う存分尋問できたのです。
暴力を振るわれることはありませんでしたが、言いたくない心の傷を押し広げられ、
それも何度も同じことを言わされ、アリバイも証明できず、弁護してくれる人もなく、
あと一日続いたなら、嘘の自白をしてでも逃げたいと思ったかもしれません。
結局、後日また呼ぶと言って解放された僕は、帰りの道すがら、何度かアスファルトへ横になりながら
星空を見上げて、やっと、やっとあの白い家に帰ったのです。
家は真っ赤に夜空を焦がしていました。
轟々と音を立てて炎に包まれている様を、野次馬がケータイのカメラ機能で撮っている。
もう、頭は中は真っ白になって、ただ、呆然と立ちすくんでいました。
不法投棄されていた庭先のゴミに引火して黒煙を巻き上げているその陽炎の下で、
警官に取り押さえられている人が、僕の存在に気がついてヒステリックに叫んでいました。
「あんた、何でそこにいるのよ! 何で! 人殺し! 死ねェェェェェーーーッッ!!」
もの凄い形相で目を血走らせながら絶叫しているのは、あの南さんでした。
家という最後の拠り所が失われ、あの南さんから「死ね」と言われた。
僕にはもう、それで、十分でした。
09
「おはよう・・・意識はある?」
後ろ手を手錠で絞められ、そこから伸びる鎖が柱に繋がり、
僕はソファの上に転がっていた。
「む、、、んむ!」
喋れない。口を縛られている。
「くくく、なーに? 人間の言葉で喋んなさいよ」
目の前にはイスに座った黒い影。
皮製の厳めしい椅子の割には座っている人物が小さい。
そして、その人物は裸だった。
「イイとこでしょ? 私のパパが密かに購入してた秘密基地よ。
全室防音設備の備わったマンションの8階なんだから、ここ。凄いでしょ」
首洗 彪。まぎれもなく彼女だ。
重苦しいデスクの脇に据えられた貝殻の形をしたスタンドに光を灯すと、
彼女の白く起伏の少ない肉体があらわになり、同時に僕自身もまた全裸であることを知った。
「ここは私の城。資産は1億円くらいあるし、たっぷり遊べるわよ♪」
そう言って彪はペットボトルに入った甘い紅茶を音を立てながら飲む。
「ぷはぁ! クスクス・・・あぁ、やぁねぇ、笑っちゃう」
皮の擦れる音を発て立ち上がった彪は、くねくねと肢体を揺らして歩み寄ってきた。
初めて目の当たりにする異性のそこは、産毛が薄く、その形をはっきりと視て取れる。
細く切れ長に伸びた両の眼が、矯めつ眇めつ僕を眺めて、ソファを一周する。
刹那、まったく唐突に、彼女は僕の上に飛び乗って自由の利かない口に吸い付き、
舌を忍ばせ、歯茎を舐め、内頬の溜まった唾液を吸い上げると、僕の下唇をもぐもぐとしゃぶった。
僕は前もってそれが来ると判っていても、これが接吻であったことに気がつかなかったでしょう。
それほど乱暴でいかがわしいものでした。
「何おびえてんのよ、あんただって私の事、好きだったんでしょ?
大槻から助けてくれたとき、これをネタに私と一発ヤれるとか思ってたんでしょうが!」
興奮した彪は、股間をまさぐって、僕の乳首に噛み付いたち吸い上げたりしながら睨んで来る。
「悦びなさい! あんたのチェリーをぶった切ってあげるわ。縛られたまんま、黙って犯されなさい!」
あの時、犯された一部始終はあまり記憶にないのですが、僕の勃ち上がった根が、
彼女の股ぐらの奥へ喰われていった瞬間の衝撃は鮮明です。
被っていた皮が彪の膣圧で剥がされていき、むき出しになった先端が子宮口とディープキスをした・・・
落雷が落ちたような痛みでも悦びでもないショック。
一瞬で、僕は彪の子宮に爆ぜていました。
一回目が終わっても、勃起は治まらず、彪は何か言いながら、何度も腰を押し込んで来て、
その後4〜5回に及び中出しを強要されたのです。
「ふぅ〜、ヤバいヤバい、ついつい我を忘れて浸っちゃったわ・・・」
彪は汗だくになった柔らかな肉の地平をねっとりと僕の身体に押しつけながら、
ペットボトルの最後の一雫まで飲み干すと、エアコンをつけて満足そうに深呼吸した。
「私はあんたに犯された・・・当たり前よね、女が男犯すわけないもん。だから、
今、私の中にだらしなく漏らしたザーメンは全部あんたに強姦された証拠・・・」
何が起きたのか何も理解できず混乱する僕に、彪はまたキスをしました。
「もうこの世の何処にもあんたの逃げ場はないわ。私の皐月♪」
10
僕は手足と口の自由を解放されました。
「ん〜〜〜、、、、っ!つぁ〜」
伸びをして体をよじる彪。
ぐいぐいとウエストを回して筋をほぐすと、そのタイミングに合わせて
僕の出した白濁が、彼女の内股を伝って流れ出していました。
訊きたいこと、訊かなければならないことが沢山あったはずですが、
疲労と混乱とで、僕はただ、黙って彼女の体と流れ出る自分の無節操を眺めています。
「あんた行くとこないでしょ。家、燃えちゃったもんねェ。
南さんも非道いことするじゃない? 放火しちゃうなんてさ。
だーかーらー、私があんたのこと飼ってあげる。
今日から私の性欲を満たすための奴隷犬よ。ど? 嬉しい?」
無言で彼女の股間からどろどろ出て落ちる精液を、ぼーっと見つめ続ける僕。
よくもまぁ次から次へとしたたる。
我ながらまったくあんなに沢山射精できたものだ。
「別に不服があるなら出ていってもいいのよ。
まぁ、ここを出たところで、あんたを待ってるのはゴミだクズだと社会的制裁の嵐。
行くとこなんてどこにもないし、頼れる人も誰もいない。
皆あんたが憎くて嫌いで死ねばいいと思ってるんだから。
学校も警察も子供も大人もみ〜んなね。
ここを出た瞬間、私、警察に電話するわよ、あんたにレイプされたってね。
大槻達を殺し、自暴自棄になって大槻のセフレの私を慰み者にしたぁ〜…ってね」
自暴自棄はポーズでも何でもなく、事実そうでした。
だから、思考は混濁して、されるがままだった僕は、
結局彼女のペットになることを選んだのです。
裸の女の子と一緒に暮らすと言えば羨ましく思われるかもしれませんが、
実際はとても恐ろしいのでした。
好きでもない女の子が、何を考えているかまったくわからず、とにかく怖い。
キスをすれば舌を噛み切られるのではないか、
食事をすれば毒を薄く盛られて、反応を観察しているのではないか。
特に夏休みに入ってはずっと、四六時中一緒です。
互いに衣服は一切身に着けず、下着の着用も許されませんでした。
「犬が服着てるなんて滑稽でしょ」
「ならなんでキミも裸なの?」
「私は皐月に合わせて犬の振りをしてるのよ、あと、私のことは彪って呼んで」
「彪さん・・・」
「“さん”はいらない!」
食事の時はよく彼女が口移しをせがみました。
くちゃくちゃと噛み砕いたものを相手に食べさせる。
異様で気色の悪い趣向でしたが、僕は逆らいませんでした。
トイレの時は視られながらさせられ、またしてるところを視せられます。
風呂も一緒で、SEXの前と後に体を洗いっこするんです。
「彪・・・その、いつも何も避妊とかしてないような気がするんだけど」
「してないわよ」
「大丈夫なの?」
「大丈夫なわけないじゃん。もうとっくに孕んでるんじゃない?」
そんなことをケロッとして答えるので、僕は一層に逡巡するのでした。
SEXも回数を重ねると、相互に気持ちのいいポイントを掴んできます。
一週間もすると、彼女が“イく”のもわかるようになりました。
騎乗位やバック、駅弁等の体位も試し、フェラチオやクンニリングス、
SM、アナルセックスまで経験しました。
僕は、ただ射精するしか取り柄の無い下等動物として存在することを
全面的に受け入れることで、ようやく生きていたのです。
11
テレビもラジオもない手狭のワンルーム。
蒸暑かった室内に、斜めに傾ける磨りガラスの窓から夜風が流れ込んだ。
夏休みが終わってもう半月になる。
彪は学校に転向届けを出していた。
「もう学校にバレる心配もないわ」
帰って来た彼女は、そう言って大雑把に制服や靴下、下着を脱ぎ捨てると、
床に散らばったそれらを拾い上げゴミ箱へ捨てた。
「お腹、バレなかった?」
「こんな程度じゃバレないわよ」
そう言って、ぽっこり膨らんだ下腹部をペチンと叩いて見せる彪。
当然のように、彪は僕の子を妊娠した。
つわりも治まって安定期に入った今でも、堕胎する気はないようだった。
違和感は常にあった。
彼女は、つまり、その、やっぱり僕のことが好きなのだろうか?
ただ虐めるのが面白いからといって、その子どもまで生むのはやりすぎだ。
でも、それを確認したら、この関係が壊れてしまいそうだったし、
肝心の僕自身が、彼女を愛しているのかわからなかったから、
尚の事、夫婦でも恋人でもなく、怠惰な日常を送っている。
彼女の家族は? なぜこんなに大金を持ってるのか。
世の中はどうなっているのか? 南さんは? 大槻達はなぜ死んだのか?
僕は詮索しなかった。
そんな社会の一面を洗い立てたところで、僕は傷つくだけに違いないのだから。
「もうすぐ私の母乳が飲めるわよ、嬉しい?」
彪は悪戯に笑って僕の顔面に妊娠線を押し付けた。
彼女との生活が半年に至った。
買い出しから帰って来た彼女はまた服を脱ぎ捨て、食料を冷蔵庫に押し込む。
「ねぇ、食事が終わったら、新しいプレイをしましょう」
彪が万歳をして提案してきたので、僕は頷いて返した。
ラビオリと紅茶、フライドチキン。
彼女の好物ばかりで、普段より豪華な夕食だった。
食事のあと一緒に風呂へ入り、二人でソファに横になると、
僕は彼女の六ヶ月分膨らんだ腹を撫でながら、母乳を吸う。
そんな僕の頭を彼女が、髪の毛の下に指を差し入れて撫でている。
一旦乳房から口を離した僕は、
「そろそろ新しいプレイってのを教えてよ」
と焦れて問う。
彪は耳元で、
「じゃあね、まず、私のこと縛って」
と、ぞくぞくするような甘い声色で要求してきた。
予め用意されていた黒いゴムベルトで、彼女を椅子に括り着ける。
僕も彼女も、何かに期待して好奇の笑みを浮かべていた。
椅子の上で全裸の彼女は、立派な白桃のような腹を突き出し、
手足が後ろに拘束された状態で海老反っている。
「苦しくない?」
「平気よ・・・嗚呼、全然動けない。この無抵抗な感じ、申し分ないわ」
続いて彼女は目隠ししてくれと言って来た。
さすがに暗い部屋で裸の妊婦を縛り上げるのは、興奮を通り越して不安になる。
「彪・・・何を考えてるの?」
「ソファの下に霧箱があるから、それ開けて」
確かに彼女の言う通り、霧箱はあった。
中には銀行通帳と・・・包丁が入っていた。
「包丁、ちゃんと握ってる? 放しちゃ駄目よ」
「彪・・・何を、させる気なんだよ」
「念願のプレイよ。私は今日、この時のために、ここまでしたんだから・・・」
薄暗く、キッチンの橙色をした豆ライトだけが弓なりに反り返った女の肢体を露にし、
視界を閉ざされた彼女の表情は、仄かに口元を小刻みに揺らしている。
12
「通帳、それは皐月のものよ。暗証番号はメモに書いて挟んであるから
一生遊んで暮らせるだけは入ってるわよ」
「え?」
「風呂場に電動ノコギリと硫酸があるから、でっかい肉や骨も細かくして解かして
トイレに流せば大丈夫よ。私、体柔らかいし」
「何・・・言ってるんだよ」
「私の腹・・・かっ捌いて!」
滅茶苦茶な女の子だとは思ってたけど、そこまで言うなんてちょっと残念だ。
「何の冗談なんだかわかんないけど、面白くないよ、それ。
オチがないならもうほどくからね」
僕は包丁を床に置いて彼女の緊縛を解こうとすると、彪は声を荒げた。
「包丁を放すな! 絶対に! 拾いなさい!」
犬生活が長かったせいか、反射的に僕は言われるがまま包丁を拾って握り込んでいた。
「いろいろ考えたのよ、どう料理されるのが一番かってね。
それで実現可能な最もキてるやり方は、たぶんコレ。
皐月に妊娠させられて、その赤ちゃんを引きずり出されて、私は絶命する。
ズグには死なないでしょうね。暴れて逃げ出すかもしれない。
だから縛った。
あんたが私を思い出さないように瞳も隠したわ。
これが私の最後の命令よ、腹を割って、私に苦痛と死を与えて! あなたの手で!」
気がふれてしまったのか。
彪の言動の意図がわからない。
そんなこと、いくら犬に成り下がった僕であっても、やれるはずがないじゃないか。
どのくらい沈黙が続いたのだろう。
言葉を探した。
彪のお腹は、その透けるような白い皮膚の下に薄らと静脈を浮かび上がらせて、
妊娠線の上のあたりが僅かに躍動しているのを見て取れた。赤ちゃんが起きてるんだ。
「私、エイズなの」
彼女が何か言った。
「何?」
「エイズなのよ、免疫不全で死ぬの。だからあんたもよ」
エイズ?
エイズって何だ?
聞いた事がある。確か・・・病気で、治らなくて、性行為で感染するっていう・・・
!
「うそ、嘘だ! 何いっ・・・嘘だ!」
僕は棒立ちのまま裏返った声で叫ぶ。
「何回生で私に突っ込んだと思ってんの? 100パー感染してるに決まってんじゃん」
ようやく彼女の言葉を理解した僕は、顔面蒼白になり、包丁をソファの上にほってから
両手で顔を覆った。
「情けない顔しながら気持ちよさそうに私の中にザー汁ブッ放しまくってさ。
そのたんびに、私はほくそ笑んでた。こいつ、私の粘膜から毒が伝って行ってるとも
知らずにアヘアヘしちゃって…超ダセェ! って♪」
背筋が凍るよな戦慄と裏腹に全身から脂汗がにじみ出る。
死ぬ?
死ぬのか、僕は。
呼吸ができない。天井が回る。
彪の猟奇的な嘲笑が耳をつんざいていった。
なぜ?
「なんで!」
そう、なぜなんだ!
「私のパパは「みつかいの家」の幹部だった。でも悪徳な実体が明るみに出てね。
組織の金を独り占めして雲隠れしたの。教団の幹部は金もなく海外へ逃亡。
パパには激昂したでしょうね・・・でも、そのパパはもういない。
死体はさっきの方法でトイレに流したから」
みつかいの家。そうだ、僕の母が濡れ衣を着せられたカルト教団。
なぜここで出てくる? 偶然なのか。
「もう気付いてるんでしょ? あんたの母親が教団と関係してたってデマは私が流布したの」
僕はまだ彼女の言葉が解読できなくて、床にへたれこんだ。
「クラスの連中は簡単に扇動できたわね。教師も生徒の保護者も。一度火がつくとアッと
いう間に均霑して、多数派になったら疑う者もいなくなる。怒りって怖いよねェ」
徐々に、徐々に、何が起きていたのか、
その点と点が線を結び、形が見えてくる。
「大槻達も簡単に乗ってきたわ。金になるとかムカつくとか適当にけしかけてさ。
でも、南がしゃしゃり出てきてね、あいつはマジで癇に障る女だったわ」
僕の中に優しく勇敢に救いの手を差し伸べてくれた南さんと、
夕焼けの校舎で大槻との交際を打ち明けた南さんと、
そして鬼気迫る形相で僕に憎悪を剥き出した火災現場の南さんが
まだら模様になって頭の中をミキサーにかけた。
「南と大槻を段取りさせてあんたを絶望させてやろうと思ったのに、
展開は私の予想を超えてた。
大槻がね、あの腰抜け、南が言うからもうあんたにちょっかい出すのやめるとか言うのよ。
あの手この手であんたを責め苛んできたけど、ついに兵隊が動かなくなった。
だからね、方向転換。
大槻達を殺す事にしたの」
僕が膝を突いたフローリングの床を指間から凝視すると、したたる汗がキラキラしている。
そうだ、今思えば木に縛られてから、いや、母さんの死後の出来事は何もかもタイミングがおかしい。
まるで誰かが意図的に演出しているような・・・
「あんたが金を持ってきて「これでもう許してくれって言ってる」みたいな理由で
大槻達を夜に呼び出したの。夏は一部休業になる除雪業者があってさ。
そこのコンテナに誘い込んで外から施錠したの。大槻を含む5人は大暴れしてたけど、
放っぽって私はこのマンションに帰ったわ。
試しに3日してからコンテナへ様子見に行ったら2人死んでた。
猛暑が続いてね、コンテナの中の温度は50℃超えてたらしいじゃない。
頭がオカシくなってる奴もいた。泣きながら謝ってる奴もいた。
大槻は最後まで強がってたわよ。出さなきゃ殺すって。
警察の発表だと大槻は6日間生きていたって。発見があと2日早ければ生きて出られたのにねェ」
目の前に腹がある。
彪の白い腹。
若くして熟れた雌の腹が、僕を見下ろしていた。
「南があんたを逆恨みして放火したのは傑作だったわね。まぁ、そう仕向けたんだけど。
あんたが大槻を殺したに違いないって吹き込んだのよ。逆上してさ、でも…あのこも終わりね」
僕の鳩尾あたりからゴポリと黒い感情が沸き上がってきた。
何もかも、彪が、この女がやったことだったのか?
滅茶苦茶になった人生は、こいつにされたことだったのか?
「この赤ちゃんも可哀想よね。エイズの母親から産まれて、抵抗力ないから出産と同時に死ぬんじゃない?」
なぜ!
なぜ! なぜ! なぜ! なぜ! なぜ! なぜ! なぜ! なぜ!
なぜ僕なんだ!
僕が何をした!
僕を苦しめるために学校を恐慌させ、生徒を煽動し、教師に吹聴し、警察を撹乱し、大槻を殺害し、
南さんを陥れ、僕は、性病をうつされて、、、死ぬ。
なぜ!
なんのために!
「怯えてるわね…そして怒ってる。視えないけどわかるわよ、ぶるぶるぶるぶる…クスクス・・・
あの時もそうだった・・・」
彪は涎を垂れ流してだらしなく笑った。
「大槻達と遊びで車を走らせていた時。ふらふらしてる女を跳ね飛ばしたの。
面白いほどよく飛んでさ・・・すぐに変な悲鳴上げてあんたが走ってきた」
耳鳴りがした。
息が止まった。
視界が歪んで、
沸き上がる黒い感情は、もはや自制の効かないほど全身を支配していた。
「大槻はめんどくせーとか行ってさっさとその場を離れちゃったわ。
その後、あいつらがそんなのすっかり忘れてゲーセンでカツアゲやってる時も、
私だけはあんたの顔を思い出して・・・ゾクゾクしてたの!」
僕は絶叫しながら彪に飛びかかった。
13
僕は何か言っていたが、何を言っているのかわからない。
彼女は縛り付けられた椅子ごと後ろに倒れ、
間髪入れず僕の両の手が、その細い首筋に食らいついた。
やわらかい。
伝わる感触は確かに少女の無抵抗な皮膚感。
母さんとの思い出が濁流となって理性を押し流す。
「キミぃ、卑屈になるなよ」
最後の言葉。
いつも笑顔に囲まれて育った。
キミのせいで間違った。
どうしてこんな目に?
彪。
キミはなぜこんな理不尽なことをするんだ。
殺せば満足なのか?
僕が、
僕の手で!
意識が一瞬繋がったその刹那。
僕の視線が、彼女の白い腹に止まった。
胎動している。
僕の子だ。
僕が母さんの子であったように、この子の父親が僕なんだ。
僕は今何をしようとしている?
僕がこの子を愛さなくてどうする!
今までのこと何もかもが、
ひょっとしたらまだ本当の絶望でなかったとしたら。
こんなのダメだ!
逆に言えば、この子こそが、今までの何もかもが
唯一、救われる存在なのかもしれない。
僕は手を緩め、ふらふらとソファへ後しざると、そのまま腰を沈めた。
咳き込んでからしばらくして、彪が込み上げる感情に任せながら怒鳴る。
「この腰抜け! グズ! 目の前に親の仇がいるのに何くつろいでんのよ!
それでも男なの!? なんで包丁を手放したのよ!
それを持ってれば、首絞めなんてせず一発で終わってたのに!
ありえない! 死ね! バカ! 弱虫!」
少しの間、がなり散らした後、
「台無しだわ・・・」
と一言呟いて、飽きてしまったのか押し黙るばかり。
僕は立ち上がって彼女の戒めを解くと、目隠しを取り、
体を起こしてソファの僕の隣へ座らせた。
僕は黙って彼女のお腹に手を置いて、赤ちゃんの動きを確かめる。
「行きなさいよ・・・もう、好きなようにすればいい」
彪は半開きになった窓の外を眺めながら無気力に話した。
「最初は週刊誌がすっぱ抜いたんだけど、そのうちワイドショーになって、
あんたはね、今、世間じゃ悲劇の美少年ってことになってんのよ。
母親の死で失意のどん底にあった一人の少年が、教団と何の関係もないのに
いわれの無い噂のせいで家まで焼かれたって話。
最初、学校はいじめの事実を否定してたけど、生徒達の証言によって
全面的謝罪体勢。指導した教師は自殺。
警察もメディアの追求で不当な勾留であったと認めそうだって言うわ。
焼け跡の前であんたのお母さんの生徒たちが
みっともなく号泣しながら謝ってる映像がニュースで流れてた。
巷じゃあんたが富士の樹海へ自殺に行ったなんて目撃証言まで出て大捜索よ。
今、公の場に姿を現せば、あんたはヒーローになれるわ」
彪の言葉には、まるで現実感がなかった。
世の中の全ての人が僕を憎んでいたというのに、
今はそれが間違いだったと言っている。
そんな極端な話があるのだろうか?
「このまま問題が膨らむとマズいって言うんで、皆、自分だけは
それに荷担してないって責任のなすり合いが始まってる。
あれだけやっておいて、どいつもこいつも自分は犠牲者だったって
すり替えてるのよ。実際、あんたに嫌がらせや脅迫の手紙を送ったのは
少なく視ても百人以上いたのに、それについての謝罪の手紙を出したのは
たったの5人。
自覚がないのね。
学校も警察も犠牲者ぶって、近隣住民は恥ずかしげもなく南を責めて・・・
傑作なのがクラスの連中ね。独りで悩まないで相談してほしかったとか言ってんの。
誰も耳を傾ける奴なんていなかったのにね?」
彪は乾いた嗤いを残して再び僕にこう問う。
「出て行かないの? 誰もがあんたを迎え入れてくれる状況よ。
自分を誤摩化したいあまりにね。そう、雰囲気だけの協力。
皆があんたが悪者だと決めつけていたから一緒に攻撃し、
今はあんたを悪者扱いする奴が攻撃されてる。
世の中はいつだって極端よ」
「なぜ僕だったの?」
「・・・」
「僕を絶望させて、僕に殺されようと思ったのはなぜ?」
「あんた知ってて訊いてんでしょ?」
彪はそれ以上、もう、何も言わなかった。
「一緒にいるよ」
僕は彼女のお腹にキスをしてもう一度言う。
「一緒にいる」
窓の隙間から心地よい夜風が入って僕たちを撫でた。
くもりガラスの向こう側では、街のネオンが丸く列んでゆっくりと動いていた。
おわり