< 産神草(ウブガミソウ)>
01
クローゼットを開けると砧 千亜沙(きぬた ちあさ)がうずくまっていた。
「終わったよ」
淡々としたその言葉に恐る恐る顔を上げた千亜沙は、小刻みに震える半開きの口から何かを言おうとしているようだったが、そのまま壊れたように固まってしまう。不安そうに次の言葉を待つ千亜沙の手を引いて、“どらむ”は再び1階へ降りた。そういえば、母親は使ったものを洗いもせず元の場所にも戻さなかったので“どらむ”が変わりにそれをしていたが、今日は“どらむ”が使って汚した金槌を洗わず、また工具箱にも戻さなかった。そして、もう誰もその始末はできない。
母親は昼間のバラエティー番組を視聴しながら小分けにされたゼリーを食べていた。“どらむ”が近づいても振り向くことはなく特に動きもなかったので、金槌は狙い通り頭の天辺に振り下ろすことができた。崩れるように床に転がった母親の側頭部にもう一度振り下ろすと、頭蓋に穴を空けた手応えを得た。テレビを消すべきか、金槌を洗うべきか、わずかに迷ったが、今更何をしても無意味だと考え、放置し、2階のクローゼットに隠れる千亜沙の元へすぐに向かった。
外に出ると、家の中の凄惨さが嘘のような晴天で、どこか現実味なく“どらむ”は千亜沙の手を引くままに東小金井駅へ向かった。黙したまま二人は駅へ到着すると、切符を買うためようやくお互いの手をほどく。予定通り東京駅に着いてからは高速バスへ乗り換え、そこまで二人はときたま「ん」などと独り言でさえない無意味な声を発するのみで、結局一言も会話はなかった。
“どらむ”は実の母親を殺害した実感を探していた。自己嫌悪はなかった。罪悪感も湧かなかった。別にせいせいしたわけでもなく、まるで興味のなかった番組が最終回を迎えたように「そっか、死んだんだ」くらいにしか感じられなかった。いつからこれほど無感動な人間になってしまっていたのか。少なくとも、殺そうという結果に至るまでは屈辱や怒りや羞恥心が胸中渦巻いていたはずなのに、それはいつのまにか失望と憐憫に変化し、たぶん、感じることに疲れきってしまっていたに違いない。“どらむ”は麻痺した精神を少しずつ揉んでいくような、そんなイメージで目の前にあるシート裏面のネットを見つめ続ける。
父親が早くに亡くなり母親は女手一つで“どらむ”を育てた。幼少期の“どらむ”は別に母親が嫌いではなかった。母親が「おまえは普通の子とは違う、障害があるけど、国がちゃんと補償してくれるから大丈夫よ」と繰り返したことにも、不安は呷られたが、さして疑問は抱かなかったと思う。ある支援団体の男と母親が一緒に“どらむ”を医者へ連れて行った。“どらむ”は母親に言われたとおりに振る舞った。母親は「これでもう大丈夫」と言った。母親が働いていないことについても小学生くらいまではなんとなく「そういうものだ」と理解していたが、中学生になり母親が生活保護を受けていることを知る。生活保護についてネットで情報をつまみながら、“どらむ”は急激に自分が恥ずかしくなっていった。どの友達の家でも父親は働き、また共働きの家庭も少なくなかった。それなのに、自分と母親は働かずに国からお金を恵まれている。国のお金とは税金であり、つまり人様のほどこしを受けているのだ。“どらむ”が知る限り母親に障害はない。にも関わらず社会人としての責任を果そうとしない。何度となく母親には問うたが、結局働かないことを“どらむ”のせいにされた。“どらむ”は高校に行かずバイトをした。チラシの折り込みや発送物の封入作業などのバイトで月の給料は12万程度。独り立ちしようとしたが、母親は勝手に“どらむ”を《障害者認定》しており、それが働き口の可能性を狭めていた。母親はあたかも自分たちの稼ぎのように生活保護の金額を引き合いに出し「あんたがいくら頑張って働いたって12万ぽっちじゃないか」とバカにした。母親は弱視と難聴を理由に生活保護を受け取っている。検査のときは医者にデタラメを言って診断書を捏造し、役所に行くときだけもっともらしくサングラスに杖を持っていった。生活保護受給の月額は27万円。ブランド物の悪趣味なコートや財布をギラつかせて昼間からパチンコに興じている。悪びれる様子もなく「これっぽっちじゃ化粧品も買えない」と文句を言う。本来は本当に障害を持って生活に苦労している人へ渡るべきお金を騙しとっているのだ。“どらむ”は母親が贅沢な食事をする傍ら、部屋で一人最低限の質素な食事をした。私は違う、私は普通だ。若く、健常で、自分の力で働くことができる・・・でも、母親からは常に「おまえは障害者だ」と言われ続け、自分は普通じゃない、だから人並みの生活などできない、そう思い込んだ時期もあった。でも、親の目的が国のお金が目当てであることに気づき、激しい自己嫌悪に苛まれてきた。恥辱にまみれたお金でご飯を食べてきたのだ。そのお金は隣に済んでいる家族から、または社会に出た同級生たちから恵んでもらっているお金なのだ。でも、現実は厳しく、“どらむ”は職を失い、部屋にこもりがちになっていった。もうすぐ二十歳になってしまう。このまま成人にはなれない。ケジメをつけるなら、十代最後の今しかない。あの閃きと同時に“どらむ”から母親に対する感情が無機質なものへと変容していった。
バスを降りた二人は、さらに乗り継いで山間のダムまで行くと、そこからは徒歩で移動した。途中地盤沈下で崖のように地層を露出している道路があり、千亜沙が「すごいね」と呟いた。“どらむ”は「ミルクレープみたい」と呟き返し、千亜沙は笑った。
「なんか面白いね」
明るめの色に染めたカールを揺らして千亜沙は照れている。
「まぁね」
“どらむ”は耳の裏をかきながら、キリッとしたモデルのような顔立ちを柔らかく崩した。
「どらむちゃんは…えっと、まだどらむちゃんでいいんだよね?」
「うん」
「どらむちゃんは山とか平気? 虫とか出るよ」
「平気じゃないけど、まぁ、平気かな」
「なにそれ」
千亜沙は再び笑った。
“どらむ”は本名ではない。mixi内で使用していたアカウントネームだ。千亜沙は本名で登録していて、二人は廃墟コミュニティーで知り合った。そこでは参加者たちが廃墟の画像を貼ったり廃墟の何に魅せられるのかを語り合ったりしている。そんな中、千亜沙は故郷が数年前の大震災によって廃墟になってしまったことを語っていた。千亜沙は震災よりずっと前に三鷹へ移り住んで無事ではあったが、故郷の街は壊滅。おまけに原発事故の影響で立入禁止区域に指定されてしまう。東小金井に住む“どらむ”とは家も近く実際に出会ってその辺の身の上話をするようになった。千亜沙は“どらむ”より4コ上の23歳で介護関係のパートをやっており、第一印象はおっとりとした優しいお姉さん。今も赤いカーディガンにフレアスカートと下にレギンスを着け、およそこれから山登りをする格好ではなく、そのギャップがまた“どらむ”を和ませた。“どらむ”のほうはというと、セール品のジーンズに白いパーカーを羽織り、化粧気のない無愛想な表情をして、黒髪のショートカットはどこか生意気そうで千亜沙とは対象的だ。
「ヘビとかカエルは?」
「平気ってゆーか、毒とかあって危なそうだからヤだな」
「この辺りの山に毒ヘビも毒ガエルもいないよ」
二人は他愛ない話をしながら寸断された道路を進み、瓦礫と化した家屋をすり抜け、《警戒区域設定により立入禁止》と表示されたフェンスを越えた。山の話、生き物の話、駄菓子の話などをしながら山道へ踏み入る。その日はついに母親を殺したこと、そして死に場所へ向かっていることについての話題に触れることはなかった。
02
山を一つ越え無人となって久しい街に出る。そこを一望した二人は我が目を疑った。廃墟と化した町並み、乗り捨てられた自動車、歪に割れた道路、その一切合切は濃い緑に覆われていた。たった数年、人の手が入らなくなるだけでこうもあっさり文明は自然の力に飲み込まれてしまうものか。高濃度の放射線を含んだ雨が大量に降り注いだはずだが、想像していた石と鉄だけの灰色が続く荒涼とした景観などなく、ただただ植物の生命力に脱帽するばかりだ。公共施設は比較的原型を留めており、市役所の2階へ上がり一夜を過ごした。宿直にあつらえられた部屋で古い毛布の埃を落とし、その下に寄り添って“どらむ”が呟く。
「スゴいね」
笑みを浮かべて千亜沙が応える。
「植物が?」
「《街》全部がさ、生き生きしてる。外は虫やカエルがうるさいくらいに鳴いてるし、さっきもニワトリが野生化してたでしょ」
「うん、ちょっと怖かったね」
「ね。なんだろう、変だよね、東京の街のほうが死んでる感じがするよ」
汚れて透明度を失った窓ガラスが不安を誘うような音を発てた。
まだ千亜沙が中学生だった頃に、原発は臨界事故を起こし作業員だった兄は被爆してこの世を去った。
電力会社の現場責任者が遺族の家をまわり、報道陣に見せつけるように土下座をして謝った。千亜沙の父親はその責任者に「息子を返せとは言わない。二度とこんな過ちを犯さないでくれ」と伝えた。結局電力会社は本社の人間を一人も謝りによこさなかった。すべて現場の責任にし、本社の人間は誰一人血を流すことなく原発は数日で再稼働。そして、震災の日に父親を含め家族の全員が命を失った。もし最初に起きたあの事故で、もっと真剣に原発の安全性を考えていたら、あの震災でこれほどの放射能被害は出なかったんじゃないか。千亜沙がそう考えない日はない。
家族を全て失った千亜沙に援助を持ちかけてきたボランティアがいた。結局彼等は詐欺グループであり、千亜沙は騙されて震災被害者から更に搾取する片棒を担がされてしまった。名義を使われ、グループは解散、二千万円を越える借金を負わされる。
“どらむ”が「二人で死んじゃおうか」と持ちかけたとき、千亜沙はジョークとわかっているような口ぶりで「それ、グッドアイデア!」と乗っかった。二人は駅近くにあるデニーズで計画を立てた。“どらむ”は恥ずべき存在の自分と母親に終止符を打つこと、そして千亜沙は今は立入禁止区域に設定されている故郷に戻って、そこで最後を迎えたいことを提案した。二人とも、どこかでどちらかが「な〜んてね、何マジメに話しちゃってるんだろ。あー楽しかった」と悪乗りを制してくれることを期待していたかもしれない。だが“どらむ”が母親の頭に金槌を振り下ろすまで、ついにその冗談は冗談であることを指摘されることがなかった。
「ねぇ、誰か私たちを捕まえに来るかな」
毛布の中で呟く千亜沙の質問は不安と期待が入り交じった声をしている。
「来ないよ。毎日パチンコばっかりのババアは交友関係ないし、生活保護の定期確認でバレるとしてもずっと先だと思う。私たちの失踪を心配してくれる肉親もいない。知ってる? 日本の年間行方不明者は10万人以上いて、内1万人はまず発見されないんだって。特に樹海とか、山に入ったらなかなか見つからないらしいよ。しかもここは人が捨てた世界、警察も闇金も立ち入りできない聖域なんだから」
ただでさえ文明の灯がない場所、毛布の中で千亜沙がどんな表情をして今の言葉を聞いていたのか“どらむ”には確認できなかった。
翌朝、曇り空で涼しいが5月も中頃にさしかかって湿気が多い。二人は倒壊し埋没した街を歩きながら次の山に入った。急勾配な獣道を分け入り、何度も転んで服を汚した。大きな虫やグロテスクなキノコに悲鳴を上げながら、ようやく着いた山頂で最後のオニギリとバナナを食べた。お腹にモノが詰まっている状態で死にたくないという千亜沙の意見を尊重し、持参した食料は少なめにしておいたのだが、どうやら千亜沙の故郷にたどり着くまで体力が持ちそうにない。二人はいよいよ最後の時が近いと感じ始めていた。山をさらに深くへ下っていくと、もうどっちから来てどっちへ向かっているかもわからなくなっていた。もう、引き返せない。この山奥で、誰にも発見されることなく死ぬ。死ぬ。死んでしまう。込み上げる恐怖感に押しつぶされそうになる。“どらむ”は気がつくと涙を流していた。自分が何をしているのかわからなくなった。千亜沙は操られているような動きで無言のまま歩き続ける。
「(なんだこれ・・・なんでこんなことしてるの?)」
自問自答の刹那、突然の稲妻が空を割り、どしゃぶりの雨が二人を襲う。痛いくらいに強い豪雨は開けた小川の石の上でにたたずむ二人の女たちをひとしきりいたぶると、さーっとどこかへ引いてしまった。ずぶ濡れの二人が空を見上げると、雲間から日光が射している。今度はお互いを見合わせて、大笑いした。さっきまでの不安や恐怖が洗い流されてしまったかのようだ。
「あ、私いいこと思いついちゃった」
“どらむ”はいきなりその場で雨水を吸って重たく貼り付いたパーカーとシャツを脱ぎ捨てる。白く透き通るような素肌に形の良い小振りな乳房が露になる。
「どうしたの?」
「もういらないんだよ、私たちにこんなもの!」
「いらないって、服のこと?」
「うん、ほら脱いで脱いで」
「え〜」
半笑いで千亜沙も脱ぎ始める。少し紅潮した素肌にふっくらとしたバストが揺れ出る。二人は靴も下着も、全部脱ぎ捨てた。そして脱ぎ捨てた服をそのまま置き去りにして全裸のまままた歩き始めた。
「気持ちィー! これこれ、やってみたかったんだ、全裸で堂々と外歩くの」
“どらむ”は思わずワーッと大声で叫ぶ。千亜沙は笑いながら後をついていく。二人は産まれたままの頼りない姿で深く暗い森の奥へと消えていった。
03
滝を発見した。滝といっても身長より少し高いくらいのもので、そのまま小さな川となって道を作っていた。
「天然のシャワーだね」
汗と汚れと擦り傷を洗い流し、虫刺されを冷やすため二人はその場で休憩した。
「疲れた〜、今までの人生でこんなに歩いたの始めてかも」
千亜沙は川に足を浸しながら隣に座る“どらむ”にぴったりと寄り添った。元々スキンシップの好きな娘だったのかもしれない。柔らかくてきめ細かい千亜沙の素肌が吸い付くように密着し、その感触の良さに“どらむ”はドキドキしている。千亜沙はよく女性らしく“しな”を作る動きをして、どこか守りたくなる儚さを秘めていた。同性であることにコンプレックスを感じてしまうくらいだ。“どらむ”はこんなに他人と触れ合う経験などなかったから戸惑っているものの、相手が千亜沙だと安心して、無意識に彼女の頭を撫でている。髪も柔らかく、ふわふわと手のひらを気持ちよくさせた。
「お腹減ったね」
「うん」
「このへんで終点にする?」
千亜沙の不意な言葉に“どらむ”は返答できない。日没した5月の山はまだ少し寒い。歩いて火照った体温が下がりだし、疲労と空腹とが、もうこれ以上闇雲に歩き続けることの虚しさを膨らませていた。着衣に覆われていた時には気づけなかった、森の息吹、虫や鳥やカエルやヘビや木や草や獣や風や岩や土や人間の感触。その一つ一つが《生命》であることを知らせているような、不思議な肌触り。
「砧さんは、いいの? 故郷に到着できなくて」
「もう無理だよ。一歩も歩けない」
いや増しに不安が湧いてくる。4歳年上の千亜沙がまるで駄々をこねる妹のようだった。でも、寂しくはない。“どらむ”は今まで母親と二人暮らしをしてきた生活のいちいちを反芻して、それが《寂しい》と形容される感情であったことに気づいた。
「!」
びくりと千亜沙が身を起こす。
「どうしたの?」
「どらむちゃん、聞こえなかった今の?」
「何が?」
耳を澄ませると滝の音がノイズとなって他のサウンドがかき消されていく。
「今の、人の声だよ!」
“どらむ”はギョッとしてその場に立ち上がり回りを見回した。少し前傾姿勢で胸と股間を隠してしまうあたりに自分の《女》を発見する。
「聞き間違いじゃない? ありえないよ、こんな山奥に人なんて」
「・・・うん、ひょっとしたら動物かも。よくね、夕方に学校から流れてくる“夕やけ小やけ”に反応して遠吠えする犬が近所に住んでたんだけど、すごく人の声っぽかったし・・・」
「さっき聞こえたのも遠吠えみたいだったの?」
「うん、叫んでるみたいだった」
風が吹いて木々の葉が一斉にこすれ、その喧噪が降ってくる。背筋に悪寒が走り、二人は手をつないで見つめ合った。“どらむ”は千亜沙の可愛らしい面持ちを凝視してしまい、少し照れて目をそらす。
「ちょっと滝から離れてみようか、また聞こえるかもしれないし、きっと犬だよ・・・犬なら犬で怖いけど・・・」
“どらむ”は母を殺して駅に向かうのと同じように千亜沙の手を引いて小川から離れるように山の斜面を下る。樹は生い茂り、月明かりも通さない闇の中。裸足のため尖ったものを踏まないよう慎重に歩を進める。
ォオォォ・・・アァ〜・・・
全身が総毛立つような戦慄。確かに聞こえた。人の声、男の声だ。二人はぎゅっと両手を握り合い、くっついた状態で立ち止まった。
「あっちだよ、風下のほう」
「どうする?」
「わかんない・・・怖いよ、どらむちゃん。悲痛な感じの声で、ひょっとしたら幽霊かも」
“どらむ”は唾を飲み込んで少しずつ声のした方向へ移動を始めた。
「どらむちゃん・・・どらむちゃん・・・」
「大丈夫、オバケなんていないよ」
千亜沙の怯えが伝染しそうになるのを押し殺して、ゆっくりと地に足を這わせるように歩いた。
ウアァ・・・オォ・・・
聞き違いじゃない。ハッキリと聴覚に訴える。何かに遮られてくぐもった男の嗚咽。いや、鳴き声と呼ぶべきか。その声からは知性が感じられないばかりか感情さえ測れなかった。動物的で、正気の者が発するそれとは異なる異常性を含んでいた。一糸と纏わず、退路はなく、視界も奪われ、無防備な、あまりに無防備な女二人が近寄ってただですむような声ではない。
「どらむちゃん、何かあるよ、視える?」
千亜沙の指摘する箇所に目を凝らすと、不自然な直線を視認できた。更に近づくと、それはコンクリで出来た人工物だ。数メートル先の途中から急斜面になり、そこに埋まるようにしてそれはある。山奥に家? よく倒壊寸前の家屋が自然に飲み込まれて点在するのはネットで見た事がある。だが、これは掘建て小屋とはわけが違った。グーグルアースで無人と思われる山中に謎の施設跡を発見したこともあった。だが、それと比較しても小さすぎる。木の葉が生い茂り上空からは確認できないし、いったい何の目的でこんなものがあるのか。二人は斜面を降りて人工物の正面に回った。大きさは公衆トイレほどしかない。
オ・・・ォオ・・・
中からあの声だ。キューブ状の異様な物体の中に、声の主がいる。“どらむ”は千亜沙の手を放し、足下を探った。棒でも石でもいい、何か武器を手にしなくてはと考えたからだがそんなに都合よくはいかない。突然手を離されて焦った千亜沙が飛びついてきて我にかえった“どらむ”は、再び彼女の手を握りしめて、丸腰のままキューブに近づいた。
「どらむちゃん・・・どらむちゃん・・・」
不安で泣き出しそうな千亜沙の囁きを左耳に受けながらキューブへ触れる。ざらついたコンクリートにシダ植物の根が這っている。土に埋もれながらも側面には鉄のドアがついている。“どらむ”はコの字型の取っ手に手をかけた。
「どらむちゃん・・・」
口に両手をあてて消え入りそうな声を発する千亜沙を一瞥してから、ドアを引く。油が切れた機械のようにギシギシと軋む音を発てて、地面に引っかかりながら少しずつ開ける。すると隙間から悪臭が流れ出した。糞尿の臭い。真っ暗な室内を覗き込む。何も見えない、奥行きも掴めない完全な闇。ただ気配はある。明らかに何か居る。“どらむ”は意を決して声をかけた。
「すみませーん、どなたかいらっしゃいま…」
ギヤァァアアァアオォォオオッ!
「ひっ!」
突然の絶叫にパニックを起こした“どらむ”は、もんどりうってその場を逃げ出した。斜面を転がり落ちるように一目散だ。姿は見えなかったが、あの声の主は明らかに狂っている。何者かわからないが、言葉の通じる相手じゃない。木の幹に衝突し、ようやく止まった“どらむ”は冷や汗を拭いながら呼吸を整えた。そして現場に千亜沙を置き去りにしていることに気が付き、再び青ざめる。
「砧さん! 砧さーん!」
返事はない。“どらむ”は震える足に鞭打ってキューブに向かい斜面を登り始めた。
04
空が白んできた。遠くで鳥の鳴き声が木霊している。耳を澄ませて方向を定める。辺りには霧が立ちこめて、屹立する樹木のシルエットもおぼろげだ。
「砧さーん!」
自分の声が反響するばかりで返事はなし。“どらむ”は丸出しのお尻をペチンと叩いてから、登りの速度を上げた。すぐに景色の一点に差異を見いだす。木や土の濃いカンバスにぽっかりと白いオブジェ。千亜沙だ。
「砧さん!」
聞こえているはずだが返事がない。動きもなかった。嫌な予感がする。“どらむ”は注意深く周りを確認しながら千亜沙に駆け寄った。千亜沙はへたりこんだまま視線を地面へ落としている。どことなくモディリアーニの「座る裸婦」を想起させた。
「砧さん、私のことわかる? 置いて逃げたりしてごめんね、大丈夫だった?」
千亜沙は小刻みに震えていた。放心状態に近いのかもしれない。彼女は不安に見つめている“どらむ”の存在を察し、ゆっくりと表情を確認してから、口を手で押さえ前方を指差す。“どらむ”はその指し示す方向へ視線を移動すると、あのキューブが、霧の中から姿を現した。思っていたよりずっと近い。それだけ千亜沙はこの場を動けなかったということだ。あの絶叫の主はまだ中に居るのか・・・。“どらむ”は半開きになった鉄のドアを凝視した。
心臓が止まるかというほどの衝撃が全身を貫いた。ドアの下に寝転がるように何かが飛び出している。それは顔だ。一見して子どもの粘土細工のような顔、出来の悪いかぶり物のような歪の形相。そして、その顔がドアの下の隙間から横になってこっちを見ていた。微かにウーウーという不気味な声を発している。絶叫の主だろう。“どらむ”は腰を抜かし、漫画のように「あわわ」と言って失禁した。失禁している自覚がないほど“どらむ”の意識は、粘土細工の顔面ただ一点に注がれていた。目を背けたい、認めたくない光景なのに、それが選択できることにさえ気が回らなかった。
「ウヒィィ、、ォオッ!」
粘土細工がまた奇声を上げる。それを聞いた“どらむ”の中に沸き上がるのは恐怖だけではなかった。その奇声は、女二人を威嚇する類いのものではない。どこか悲痛で惨めさをにじませている。気がつくと千亜沙が“どらむ”の肩に手を置いていた。その手から何か魔法の力でも流れ込んでくるかのように、張り裂けそうだった“どらむ”の鼓動は少しずつ治まっていく。
「どらむちゃん・・・行こう」
“どらむ”は不安気に千亜沙を見る。そこには今までの気弱な千亜沙はいなかった。唇を噛み締め、泣きはらしたような目で奇声の主を見つめる聖女の姿があった。
「行くって・・・何?」
「あの人のところ」
千亜沙の喋っている意味が理解できなかった。どこに行くというのか、あの人とは誰のことか、頭の中がぐるぐると回る。“どらむ”は千亜沙に肩を抱えられるままふらふらとキューブへ近づいた。
「やだ、やだやだ砧さん、そっちはヤダよぅ」
視線は生い茂る木の葉へ逃げながら、体は千亜沙の導きに逆らえない。
「ヴゥゥゥゥゥゥゥ…ンブゥゥゥゥゥ」
カエルのオバケが風邪でも引いたような、呼吸混じりの不気味な鳴き声へ近づいていく。そして、それとの距離は3メートルばかりに迫ったとき、“どらむ”の瞳は再びあの顔を直視した。それは形容しがたく醜悪極まりない。顔面が前方にせり出して、眼球は視点が噛み合わず、魚類のように感情の読み取れない。
「あなたは・・・ここに住んでいるんですか?」
千亜沙の問いかけには反応しない。呼吸を荒げて二人の肢体を眺めているようにも思える。“どらむ”は生唾を飲み込んでじっと彼を見つめた。バケモノのような姿をしているが、強いて何の動物に近いかといえば《人間》だろう。一歩ずつにじりよる。ホラー映画のように、急に飛び出してこないか警戒しながら注視した。頭髪はなかった。また顔の先端には口があり、捲れ上がったまま縫い付けられたような唇の下から、黄ばんで黒い斑点のある歯茎が露出、唾液を垂れている。歯はない。でこぼことした歯肉だけだ。眼球のやや下あたりに気功があり、それが鼻の穴のようだった。左右で微妙に目や穴の位置が違う。“どらむ”は角度を変えてキューブの室内に目を配る。暗くてよくわからないが、床に寝そべった奇声の主の身体は見て取れる。
「大丈夫ですか? 具合悪いですか?」
奇声の主に対し、驚く程冷静に千亜沙が声をかけている。千亜沙が鉄の扉を引いて更に入口を開くと、奇声の主の全貌が明らかとなった。後頭部は肥大し、顔面がせり出して、頭部だけ見れば怪物だが、顎から下は確かに成人男性のそれだ。ただ、首らしきものはなく、喉と胴体が同化しているようで肩もない。腕もなく、頭部両サイドのすく下から指になりそこねた太く短い突起が4〜5本生えている。男だが胸板といった逞しさは微塵もなく、のっぺりとした皮膚の上に乳首があり、腹はだらしなくたるんでいて、足は退化の途中と思わせるほどやつれ、産まれてから一度も立って歩いた事がないように思われた。頭髪も体毛もないが、腹や尻や乳首の周り、その他からだのいたるところから勘違いして生えてきたような毛が1〜2本、ひょろっと出ていた。そして、見たくもないと思いながら“どらむ”は始めて生で見る男性器の卑しさに気をとられてしまう。
「あなた一人ですか? 私の言葉はわかりますか?」
バケモノとコミュニケーションを試みる千亜沙に
「これ・・・何?」
と“どらむ”が問う。
「わからないけど、重度の障害を持った人だと思う」
「障害? 畸形児ってこと? それとも、放射能の影響とか?」
「わからない・・・でも、たぶんこの中に入ればわかるかも・・・」
二人の女は、躊躇しながらもキューブの中へ足を踏み入れた。
05
二人は小さな滝で全身を洗い清めた。正午にも関わらず辺りは森特有の暗さに包まれている。
「さて、どっからやろうか」
千亜沙の言葉に、自分の体の斜面を流れはじける水滴に気をとられながら
「まずミイラを埋葬しよう」
と“どらむ”は答えた。
キューブの中はコンクリート打ちっぱなしの無機質な空間だ。“どらむ”の長身だと直立して天井すれすれ、奥行きは六畳間よりやや狭い印象を持つ。奥には食料庫と倉庫が別々にあり、トイレ用の個室も設けられていた。そして、その部屋には3つの異物がある。一つはバケモノのような姿をした男、一つは部屋の隅に追いやられた糞尿の山、最後の一つは老人のミイラである。二人は想像を絶する異常な有様にすぐ屋外へ飛び出し、“どらむ”は嘔吐、千亜沙はぶるぶると震えながら大粒の涙をこぼした。如何なる天の采配か、このまま何も見なかったことにして「次」へは行けない。“どらむ”は、どうせ死ぬにしても、この惨状に対してある程度の結論を出しておきたいという好奇心が湧き上がり、また千亜沙も「あの人を放っておけない」と、介護職についていた地を出して想い改まった。なんとか平静を取り戻しつつ改めてキューブの内部に挑む。
「ひどい臭い・・・コイツこんなところでよく生きてたね」
“どらむ”がバケモノ男を見下ろしながら眉をひそめた。
「手がないからドアが開けられなくて、閉じ込められていたのかも。トイレはあるのに、下の世話を自分でできなくて垂れ流してたんだよ」
千亜沙の推測に哀れみの情が湧く。確かに恐ろしい姿をしているが、猛獣に感じるような危機感・攻撃性は感じない。このバケモノは、社会で自立した男たちと比べて、ある意味に置いては無害と言えた。全裸であるにもかかわらず、バケモノの視線に前を隠す気も起きなかった。
「そのミイラは?」
「この人の世話をしていたのかな。親御さんなのかも。でも、何かの理由で死んでしまった。一人残されたこの人は、ずっとこぼれたお米を固いまま食べて生き延びてきたんだね」
また千亜沙の目が潤む。食料庫の米袋が一つ穴空きで、バケモノ男はそこからこぼれた米を食んで生き延びてきたのだろうか。長時間はその場にいられず、すぐに外の空気を吸いに出た。そして、気を紛らわすように二人は滝で体を洗った。
「オォウッ! オオォウ!」
あのバケモノ男がまた声を上げている。それを聞いて千亜沙は言った。
「呼んでるね」
「私たちを?」
「置いて行かれると思ったのかな、またひとりぼっちになっちゃうって」
「あんな様なのに寂しがり屋とはね〜」
ひょうきんな“どらむ”の言い回しに千亜沙がクスクスと鈴を転がしたように笑った。やっぱり千亜沙は笑うと更に可愛いなと“どらむ”は思った。
まずミイラを埋葬する。千亜沙は介護の仕事についていたとき、訪問先のお年寄りが亡くなっているのに遭遇したことがあり、それは認知症で被害妄想の気がある男性だった。“どらむ”は実際に人の死体を見るのは始めての経験だったが、千亜沙よりむしろ抵抗なく死体と接した。人の形はしているものの、それは確かに死んでおり、《人》というより《物》という認識が適切に思える。ただ、生前の趣味や指向が身体に残留しているため、ただの人形としては扱い難いものはあった。死体はミイラ化していたとはいえ水分が溜まっているのか予想以上に重く、それでも虫が涌いたり腐敗して崩れたりしなくて助かった。倉庫を探すと、お花見のときに敷くようなブルーのビニールシートが見つかり、そこにミイラを乗せて、二人は両端を持って外に運んだ。一部始終を傍観していたバケモノ男は、自分の親か家族かが運び出されているというのに、特に騒ぐ気配もなかった。埋葬については最初、穴を掘ろうと試みたものの上手くいかず、キューブから少し離れた巨木のウロにミイラを座らせて土を詰めることにした。
「ここならあの人も寂しくないでしょう」
例の奇声に耳を傾けながら、千亜沙が一息つく。その木がそのまま墓石となった。
次にキューブの中を清掃する。糞尿の山をミイラを運んだのと同じブルーシートに乗せて外に出し、今度はキューブより離れた場所へ埋めた。キューブ内にトイレは接地されていたが水洗ではないし、下手に詰まらせても厄介だと思われたからだ。室内はティッシュ箱一つ分の大きさしかない嵌め込み式の窓があるばかりでとても暗いし、換気扇もなく作業環境としては劣悪だったが、幸いな事に洗剤やデッキブラシなどの清掃用具が揃っていた。ドアを開けっ放しにしておくと、外は風があって空気の入れ替えはすんなりいき、床はタイル貼りだったおかげで悪臭が染み付くこともなかった。裸の二人の女が汗水たらしながら床を雑巾がけして、それをバケモノ男が落ち着きなく蠢きながら眺めている。そんな状況に急に可笑しさが込み上がり“どらむ”は笑い出し、千亜沙は「何なに〜?」と釣られて笑顔になった。バケツの汚水を川に流しながら、ふとバケツの側面に黄色いマークが入っていることに気づく。それには原発関係の特集か何かで見た記憶のあった。
「ひょっとしたら、ここは原発事故を想定して作られたシェルターなのかもしれないね」
“どらむ”はそんな仮説をたててみた。この奇妙な形をした建物の意図、保存の利く食料備蓄、生活に必要なものは一式揃っている。数年はこもることを想定して作られているようだ。それにしても不信な点は多かったが、状況から判断して、このバケモノ男は長い事誰とも接触なく今に至っているようなので、事実シェルターだったとしても大きな規模で立てられた計画の産物ではなく、極めて個人的なものなのだろう。倉庫の中は小分けにされたロッカーが並び、手でハンドルを回す充電池と、それで動くランタンとを見つけてから作業効率は飛躍的に上がり、臭いこそまだ完全には消えていないものの、夕方になるとすっかりキューブ内はキレイに清掃されていた。人生に絶望し、人間に嫌気が指して、死ぬことを決意してここまで来たはずだった。ところが、この山奥に現れたわけのわからない建造物と住人に触れ、一つの目的を協力して成し遂げた、それが死体の埋葬であれ糞尿の始末であれ、努力して達成した充実は、とりわけ“どらむ”にとっては久しく忘れていた生き生きとした一日をもたらした。
二人は仕事明けにまた滝のシャワーでからだを洗い、バケツに水を入れてキューブへ持ち帰ると、今度はバケモノ男のからだを洗った。正直“どらむ”はまだ抵抗があった。醜怪な姿とはいえその肉体は人間の成人男性であり、全裸の女が触れてたことで股間のものをガチガチに反り勃たせているバケモノに、どうしても嫌悪感が消せない。
「大丈夫ですよ〜、怖がらないで、私たちに任せてくださいね」
千亜沙が優しい言葉を投げかけるのは“どらむ”にではなくバケモノ男に対してだ。千亜沙は異性に触られる興奮でパニックになるバケモノ男をなだめながら丁寧に手のひらで水を塗りタオルで拭いていく。“どらむ”はまさかと思ったが、千亜沙はあのガチガチの股間も素手で洗った。バケモノ男は聞いた事もないような不気味で情けない嗚咽を漏らす。“どらむ”はただただ千亜沙の献身な姿を呆気にとられて見ていた。バケモノ男に触れない“どらむ”の“乙女の純情”へ気を使ったのか、お姉さんらしいところを見せたかったのか、千亜沙は見せつけるようにバケモノと触れ合った。彼の視線が千亜沙の心地よい重さを表す乳房の揺れ、大きく曲線を画くヒップ、そしてしゃがみ込んだ太ももの谷間に見える女性器を凝視していてもそれを遮ろうとはせず、床に面した部分を洗うためバケモノ男の体の向きを変えようとするときも、女の腕の力だけでは変えられないので、千亜沙は大胆にも彼のからだに自分のからだを密着させて、抱え込むようにしながら「よいしょ」と動かした。三人が清潔になる頃にはもう夜中になっていた。
洗いやすく収納に便利なウォーターマットを敷きシーツを被せ、その感触の面白さをひとしきり味わったあと二人はバケモノ男をマットの上に移動し、毛布をかけた。自分たちは床に敷き布団と掛け布団の代わりに二枚の毛布を置いた。食料庫からビスケットと魚の缶詰を取り出し、倉庫にある一番右手中段のロッカーからフォークとお皿、あとマグカップでインスタントコーヒーを作り、質素な夕食を済ませた。バケモノには歯が無かったので魚は細かく砕いてあげた。少量だった十分に食欲を満たし、まさに空腹は最高のシェフだなと一様に噛み締めた。コーヒーのお湯は充電池を入れたポットで湧かした。充電のためハンドルを回すのは新鮮な体験なので今は面白いが、毎日やると飽きるだろうなと考えていた。そう、二人はとりあえず「明日はない」という思考を無意識のまま保留にする決定を下していた。
「疲れたー!」
“どらむ”は奇妙で不可解な、それでいて充実した一日を振り返り、キューブの中で手足を伸ばした。
「どらむちゃん、おいでおいで♪」
千亜沙は毛布の中から一緒に寝ようと誘った。実際毛布は使い切り、もうそこにしかないため選択の余地はない。毛布の中の暗闇にランタンから暖色の灯りが差し込んで、彼女の肉体の凹凸を美しいコントラストで揺らしていた。現実味のない、陽炎のような錯覚的光景。あの目を奪うような流麗な肉体が、醜悪なバケモノ男と触れ合っていたというギャップが“どらむ”を変な気持ちにさせる。
「砧さんのからだってエロいですよね」
「え〜? そうかなぁ。どらむちゃんのほうがスリムでウエストも絞まってて、足も長いし、カッコイイよ」
「でも砧さんのがエロいです」
「やぁーだもぉ〜、あとさ、千亜沙って呼んでよ。なんか固苦しいしね」
「あ、うん」
なぜこの人が死のうだなんて考えたのか、ひょっとしたら“どらむ”を放っておけなくて協調したのではないか。それはまるでこのバケモノ男を哀れむような、必要以上に恐怖心を取り除こうとスキンシップする献身と同じなのかもしれない。“どらむ”は毛布の中で心地よい千亜沙の感触に落ち着かず空っぽのコーヒーを啜る所作で誤摩化した。
「ねぁ、どうして“どらむ”なの?」
「はい?」
「“どらむ”の由来」
「あぁ、最初“どらねこ”でmixi登録しようとしたら、もう使われてて、それで“どらむ”にしたんです」
「えー、なんで“どらねこ”が“どらむ”? なんで“どら”じゃなくて“ねこ”削っちゃったの?」
「なんとなくね」
「本名は何ていうの? 苗字は谷村だよね、表札に出てた」
「谷村 響(たにむら ひびき)だよ」
「響! カッコイイ! すごく合ってると思うよ、響ちゃん! あ、本名で呼ばれるの嫌?」
「いや、響でいいよ」
「響ちゃん!」
千亜沙は茶化すように笑った。響もネット上ではなく、面と向かって“どらむ”と呼ばれることになんとなく恥ずかしいものを感じていたので、彼女には本名で呼ぶことを許した。ただ、この名前は“あの母親”につけられた名前であり“あの母親”に呼ばれていた名前でもある。
六畳間もない狭いコンクリートの中、目前でさっさと眠りについているバケモノのいびきを聴きながら、労働の疲れが一気に来て二人は眠りについた。響はまどろみながら、ある違和感が去来している。あのバケモノに感じる嫌悪と危険性は、ただ醜悪な姿をしているという以外の、何か別の文脈を持っているのではないか。だが、今更考えても今日はもう思考が働かない。その不安については明日考えることにして、ひとまず眠りの深みへと向かうことにした。
06
モノクロームの世界に重苦しい空気が淀んでいる。外の光が白く線を作って照らすリビングの床に転がる母親。スローモーションで金槌を振り下ろすと、母親の頭は陶器のように砕け散った。遠くでぴちゃぴちゃと液体のしたたるような音。母親の頭があった場所から床一面に広がる血の沼が、徐々に色彩を帯びて視界を紅に染め上げていく。
ママ!
「きゃァ!」
千亜沙の悲鳴に響は悪夢から醒め飛び起きた。何事が起きたのかと判然としない意識を強引に正して眼下の光景を確認する。昨日の労働が女たちを長く無防備に眠らせていたその隙に、先に目覚めたバケモノの牡が牝の臭いと毛布から覗く乳房に激しく心を揺さぶられて、警戒しながらも少しずつにじりより、ついに千亜沙のよく育った膨らみにむしゃぶりついたのだ。バケモノは目を血走らせ、額とおぼしき場所に青筋をたてながら、歯のない口で一心不乱に乳首を吸っていた。夢の中で聞こえたぴちゃぴちゃという擬音の正体はこれだった。千亜沙はどうしていいかわからず、ただただされるがまま。その状況を見て怒りを覚えた響は、バケモノの懐に曲げた足を差し込んで力一杯蹴り飛ばす。千亜沙の胸はバケモノの唾液まみれの唇から解放されると、大きなシャボン玉のようにふるふると儚く揺れた。蹴られたバケモノは、ギャーギャーと騒ぎながらだだっ子のように全身をバタつかせながら尚、その目は名残惜しそうに千亜沙のおっぱいを捉えている。
「大丈夫? 怪我はない?」
響は千亜沙の身を確かめた。滑らかで淡く桃色の乳房、ほくろ一つない美しい肌、大きな胸とおしりと、それを強調するようなくびれがあって、まさに女の躰であることを主張し、それでいて品のある、確かにむしゃぶりつきたくなる容姿だ。響は改めて自分たちが如何にお人好しで無知なのかを実感した。あのバケモノを、病気の犬か何かだとでも思っていたのだろうか。だとすればどうかしている。知性は低く、気遣いや感謝の気持ちを持たない本能の赴くまま行動するケダモノではないか。畸形であることが直接的暴力に結びつかなかったが、それは思い込みにすぎない。遺伝子レベルではまぎれもなく人間の男であり、当然それは人間の女に欲情する。この狭い空間で雑魚寝などもってのほかだ。
「あんたねぇ! 私の友達に何してんのよ! 飢えて孤独で不潔だったあんたを、一生懸命キレイにして救ってあげた恩も忘れて強姦とは、最低な奴ね!」
言葉の通じない相手に何を言っても無駄かもしれない。しかし怒りの感情を伝えることには意味があるはずだ。響は続けた。
「バケモノ! あんたは人間なんかじゃない、中身も外身も丸ごとバケモノ、気持ち悪いバケモノよ! ふざけんなバカ!」
「響ちゃん・・・」
胸を吸われた感触がまだ少し残っていて動機も治まらない千亜沙が、響の暴言を制した。一旦深呼吸をして熱を下げる響。そうだ、母親を殺害してからずっと変なテンションのまま今日を迎えていた。ちょっとでも現状を分析しようものなら頭がどうかしてしまう気がした。これから死のうという人間が、する必要のないことだ。狂ったまま死ぬほうが死の恐怖や生の葛藤から忘却できるような気がしていた。でも違う、何を悠長に、こんなところで眠っていたのかと。何をこともなげにこの奇怪な世界を受け入れているのかと。バケモノはぶるぶると震えながら短い指を動かしている。その姿はさながらひっくり返ったダンゴムシのようだった。
「・・・蹴ったりしちゃダメだよ響ちゃん・・・」
落ち着いた声が響の耳に滑り込んできた。ハッと我に帰った響は、千亜沙が四つん這いになって怯えるバケモノに近づいていくのに気づく。そして、その意味を理解できずにただ唖然として見ていた。
「千亜沙・・・?」
「痛かったですか? 驚かせてごめんなさい。ね? あなたも寂しかったんだよね、ママが死んじゃって、おっぱい恋しくなっちゃったんだよね」
千亜沙はそっとバケモノの頭を撫でた。バケモノはその感触にびくりと反応し姿勢を強張らせたが目の前に差し出された乳房に釘付けとなっている。
「いいよ、それであなたの寂しさがまぎらわせるんなら・・・」
バケモノは戸惑いながらも、べろりと舌で掬うように乳首を舐めた。敏感な乳首周りの神経がその不快を伴う感触におののく。でも千亜沙は逃げなかった。恐怖で悲鳴を上げかねない状況なのに、醜悪なバケモノにあの美しい肢体を捧げて荒ぶりを鎮めようとしていた。違う、あれは、あの行為はバケモノの無邪気な童心などではなく、邪気にまみれた肉欲の発露だ。そう内心叫びたかった響も、千亜沙の長いまつげの奥に揺れる母性に満ちた女神のような眼差しに気圧されて押し黙るしかなかった。
「あ、、ぅん!」
思わず女神の喉元から切ない嗚咽が漏れた。バケモノは甲高いラジオノイズのような奇妙な鳴き声を小さく発しながら、下品に音を発てて乳首を舐め、吸い、しゃぶりながら口内で弄ぶ。マシュマロより弾力の弱い無抵抗の乳房は、バケモノのなすがままに形を変えさせられている。響の目にガチガチに勃起したバケモノの男根が映り、へたくそな腰振りで千亜沙に迫っていく様相に思わず目を背けた。
「千亜沙・・・やめて、そいつは、そんなことしてやる価値なんかない」
「響ちゃん、バケモノなんて呼んだこと謝ろう。この人、きっと傷ついたよ、こっちに来て一緒に謝ろう」
響は我が耳を疑った。千亜沙は何を言っているのか。さっき何をされたのかわからないのか。犯されそうになったのだ。障害者でも弱者でも何でもない。それは下等なケダモノだ。DNAが同族のオスであろうと、人間と認められる条件など何一つ満たしていない怪物なのだ。
「響ちゃん、来て・・・」
ぼやけていく視界の先で肉のかたまりが二つ蠢いている。それは千亜沙のような声で響を誘っている。響の足は震え、吐きそうになる嫌悪感を必死に奥へ押し戻す。バケモノは興奮し、勃起した股間を不器用に振り回して千亜沙に擦りついていた。この密閉空間にこれ以上いたら狂気が感染する。そう感じた響は、鉄の扉を半開きに外へ飛び出した。
外は涼しく、朝もやが脂汗を拭ってくれるように感じる。木々の隙間から漏れ幾重も伸びる光線に導かるように滝の前までやってきた。直接流れ落ちる水に口をつけて飲むと、喉から体内へと流れ込む冷たい感触が冷静さを取り戻させる。全身を水に委ね、何度も顔を洗い、墨色の石の上におしりを乗せてしばらく放心した。あのバケモノは何者なのか、なぜあんなところにいるのか、そんな疑問が湧いては消えた。
「バケモノ・・・やっぱ言い過ぎたのかな」
響は斜面の下に見えるキューブの天井部直線を眺めながら呟いた。あのキューブがシェルターだとして、ではバケモノ男は避難が間に合わなかった原発事故の被爆者なのか。いや、被爆は火傷のようなもの。この数年であの姿にはならないだろう。肥大した頭部、退化したような足、生まれつきあの姿だったと思われる。湾岸戦争で使われた劣化ウラン弾の後遺症で、奇形児が大量に産まれた村を取材した番組を見た事が合った。部分的にはキューブのバケモノと近い、本当に可哀想な障害を持っていた。そして、ほとんどの児童は長く生きられないという話も聞いた。だが、ベトちゃんドクちゃんのように成人する者もいる。バケモノの年齢はまったくわからない。二十歳なのか、三十歳なのか、四十かもしれない。精神年齢はともかく、肉体的には少なくとも千亜沙が考えているような幼児でない。
「こんなこと考えること自体が、差別なのかな」
そうかもしれない。でも、生理的に無理だという感覚は差別や偏見とは違う。正直に、女として、あの生き物が気持ち悪いのだ。妊娠し子どもを産む最良の年齢であるメスとして、そのメスに子どもを産ませる能力のあるオスがいる・・・本能的に、アレの子を産んではならない、種の保存の摂理に反した存在・・・そう、響の中に告げている力がある。
「これは差別じゃない・・・」
人間の醜さに疲れた千亜沙が、あるいはあの人間未満のバケモノを救済することでもう一度何かを信じようとしているのかもしれない。笑えない話だった。二人はここへ死にに来たのだ。生き恥に堪えきれず、人殺しとなって、人間らしく生きる条件のすべてを捨てて来たのだ。
唇を噛み締めて、響は立ち上がった。どのくらいの時間が経ったかわからないが、あのキューブの中で千亜沙とバケモノ男を二人きりにしてしまった。千亜沙の精神状態も確かめず、また置き去りにしてしまった。自分が巻き込んだような千亜沙を、このままにして独りにして死ぬわけにはいかない。響は恐る恐るキューブへ近づく。今更ながら衣服を捨てたのは失敗だった。自分の部屋ならいざ知らず、いつ何が襲って来るかわからない不気味な世界に全裸で佇んでいることがこれほど心もとないとは思わなかった。半開きになった鉄扉の中からは何も聞こえてこない。覗き込んでみると、バケモノはウォーターマットの上、千亜沙の膝枕で満足そうにうたた寝していた。
「千亜沙、ごめん、バケモノは言い過ぎだったと思う」
「うん」
千亜沙はぽつりとそう応えて、太ももの上に乗った大きな頭部を撫でた。響はわずかな異臭に気づく。悪臭の充満した部屋だったが、それらとは異なる嫌な臭い。まさかと思いバケモノの股間に目をやると、萎えた包茎の先端に糸を引く滴りが見て取れる。それの臭いを嗅いだことはなかったが、響は直感的に異臭の正体を察した。
あれほど興奮していたバケモノが憑き物が落ちたように穏やかなのは、つまり一発出したからというわけだ。でも、一滴二滴の滴りのみで、推理を裏付けるために必要な物証、肝心の出された精液は見当たらなかった。床にもマットの上にもない、バケツの水は高い透明度を維持している。千亜沙一人の力でバケモノをトイレまで運んだとも思えない。本当にバケモノが射精したのなら“その精液は今どこにあるのか”。響の中に気色悪い想像が持ち上がり、千亜沙に対して僅かに軽蔑が芽生える。千亜沙は落ち着いた声で言った。
「私ね、もう少しこの人と一緒にいてあげようと思うの。この山奥で出会うなんて万に一つの奇跡だよ。きっと何か意味があるんじゃないかなって」
「そう」
「この人はあなたに危害は加えない。私が響ちゃんを護るから・・・ね? しばらくここで暮らそうよ」
「・・・・・」
この狭いキューブの中に三人暮らし。知性の下等なバケモノのオスと一緒に。もしも再び寝込みを襲われたら最悪妊娠してしまうかもしれない。ここには法律も警察も病院もないのだ。死のうとしていた人間が、この期に及んで未来を考えているのが我ながら可笑しかった。響は毛布を拾い上げて羽織り、前を隠すと。
「いいよ、でもこれ以上そいつにサービスするわけにはいかない」
と意地悪っぽく言った。
「うん」
あの可愛らしい笑顔で千亜沙は頷いた。だらしなく横に寝そべったバケモノを見下ろしながら、響は嫌悪と危険性の正体に気づく。そうだ、このバケモノの姿はトンカチに似ている。それは響が母親を撲殺するのに使った凶器を想起させるのだ。
07
自然界で動物達は全裸で生活している。服を着るというのは見栄をはるようなもので、不自然な行為だと、響は思っていたフシがある。だから、裸になる事は、むしろ自然な姿なのだと。しかし違った。実際、この森の奥で全裸になると、まるで甲羅を奪われた亀のように、確固とした主体性を掴めなくなる。人間は“見栄”を着ずして自らを立脚させることができない生物になってしまっていた。服を着ることを前提とした肉体は、弱く、儚く、少しの空気の変化にも敏感に反応する。剥き出しの感触が自然の力に揉みしだかれて不安定になる。そこらじゅうに生物がひしめきあって、都会では目にすることのないグロテスクな彼等の形態・動きを目の当たりにする都度、思わず股間を手で覆い庇う。トカゲでも、ミミズでも、ムカデでも、足からよじ登ってきてアソコから胎内に侵入してきそうな恐怖にとらわれるからだ。
「う…」
響は顔をしかめた。日が落ちて暗くなると、森からは一層激しく生物の躍動が彼女の肉体を振るわせた。例えば虫の鳴き声。セミやコオロギがあれほど大きな音で鳴くのはメスに対する求愛なのだと、響は何かで読んだことがあった。必死に「俺と交尾してくれ! 俺の仔を産んでくれ!」と主張しているのである。今、聞こえているこの金切り声のすべてがオスの生殖欲求によるものだと思うと、思わず耳を塞がずにいられない。その空気の振動は全身の皮膚を強張らせ、下腹部の奥がキュンと痛んだ。森じゅうから発せられる夥しい求愛の喧噪に当てられて、よろよろとキューブへとあとじさる。
「(おまえらの子なんか誰が産むか!)」
響は重い鉄の扉を開けて一旦は“人間の世界”へと逃げ込んだ。
「響ちゃん、この人の“目やに”取るからタオルとって」
キューブの中では千亜沙があのバケモノに献身的な介護を行っている。響は室内で少し距離をとって千亜沙にタオルを渡した。白濁とした目にタオルを近づけるとバケモノは怖がって暴れる。知性は下等でも成人した男の力は強く、千亜沙は振り回されそうになり、バケモノが落ち着くまで待った。食器でもブラシでも、道具を使うと嫌がる傾向にあるようだ。鼻息の荒いバケモノに千亜沙はおっぱいを差し出し、吸わせながら頭部を撫でてやる。手慣れたものだなと響は思った。
ここもまた外と同じく不快な空間だった。千亜沙はどこか壊れている。確かに彼女の行動はとても尊いものに見えるが、その動機には卑しく不純に感じざるを得ない。千亜沙には陰毛がなかった。脇毛も、髪やまつ毛以外に体毛と呼べるものがなく、幼児のようにスベスベの肌をしている。短期間ではあるが響を見るかぎり処理している様子もない。まるで最初から毛なんて生えてないような美しいからだ。でも、それは逆に彼女の異様さをよく表してもいる。大人の女で毛がないというのは、何かしら自然でない処置を行ったからではないか。その予測の裏には猥褻なものがあるのではないか。
この森の進化から外れてしまった人間。響は自分たちが森に受け入れられているのか、差別されているのか、そんなことを悶々と考えていた。
「じゃあ“目やに”とりますね」
千亜沙は、吸い疲れて口から外れた乳房を喉元へずらし、そのすべすべの肌でバケモノの体躯を前から抱きしめた。なんという格好だろうか。響は出来るだけ気配を消し、二人の世界に関わらない存在に徹する。
「タオルは嫌いですか? じゃあ・・・」
そう言って千亜沙はバケモノの唇を、頬を、顎をぺろぺろと舐め始める。ゆっくりと、やさしく、そしてピンクの舌先はバケモノの眼球に伸び“目やに”を舐めとった。情けない声を上げるバケモノは、必死に勃起したものを千亜沙の内股に押し当てて嘆願している。鳥肌が発つ。
「私、外、いるから・・・」
と、ドアから出て行く。堪えられない。これならまだスケベな虫共のプロポーズを全身に浴びているほうがマシだ。千亜沙は狂ってる。でも、あのバケモノが千亜沙の生きる意味になっているなら、無理にこの状況を破壊すべきではないのかもしれない。そうは考えながらも、それでもどこかでまだ一線は越えていないと信じていた。いや、信じたかった。セックスはしていない。さすがにそこまではない。そう思いたかった。でも、ドアの隙間からうかがえる室内では、思い逃れできないほどハッキリと、しっかりと、千亜沙はバケモノと“つながっていた”。腰を振っているのは千亜沙のほうだ。バケモノとお互いの舌をべろべろしゃぶりあうような接吻をしながら、避妊具などないこの世界で、生で、ずぶずぶと性器を出し入れしていた。芋虫のような畸形の手で乳房を揉ませ、粘膜で隙間なく絡み合い、とろけるような熱い眼差しが交差する。愛し合う男女にのみ赦されるような本気の交尾交配を、躊躇いなく貪っていた。もどしそうな嫌悪感で涙を流す響をよそに、バケモノはいなないて絶頂した。千亜沙は射精の噴出を子宮底に直打ちされて“びくん!”と弓なりに弛み、下腹の深部を濃厚な灼熱の胤に満たされ快感にわなないている。更に、結合部に重心をかけ、みっちり限界までバケモノのイチモツを喰わえ込むと、前屈みになりががら、射精の勢いが子宮に納まる一番イイ角度を維持した。
「生で中出ししてるときだけ良い子ですね。暴れたら抜きますよ? そのまま・・・そのまま・・・」
千亜沙は“目やに”だけでなく、バケモノの口内に残った食べ残しまで、あの可愛らしい舌で舐めとっていた。
それから数日が経ち、滝の前で二人の乙女はこんなやり取りをしていた。
「ハンバーグ」
「天ぷら」
「月見そば」
「カルボナーラ」
古今東西の食べ物を言い合って、わざわざ美食欲に苛まれるという自虐のゲームだ。
「食いてー!」
響が叫ぶと虫の鳴き声が一瞬止んだ。千亜沙はクスクスと笑いながら・・・はたと気づく。
遠くでバケモノの呼び声がする。
「あの人が呼んでる」
千亜沙が立ち上がって響はビクリと身をこわばらせた。千亜沙は毎日こうしてバケモノに呼びつけられて性欲の処理をしていた。ネットで読んだ情報によれば、犬と性行為をする“獣姦”というジャンルがある。この場合、人間の女が犬のオスと行為に及ぶのが常なのだが、それまで忠実な従者であった飼い犬は、女に突っ込み、何度か交尾を体験することで、主従関係は逆転するという。人間であろうと“自分の女”と認識し、犬の態度は横柄になっていくらしい。接し方次第では、あのバケモノにとって響たちは女神か救世主になりえたかもしれない。だが、千亜沙が性的なコミュニケーションで解決を計ったためバケモノの自意識が肥大化した。千亜沙を性欲処理の肉奴隷とでも思っているのだろう。
「千亜沙・・・もうやめよう、あいつは千亜沙のこと、都合のいい存在としか思ってないよ」
「響ちゃん。私はそれでも救われてるから・・・」
響は怪訝な表情で千亜沙と共にキューブへと戻った。
バケモノは苛立っていた。無感情な魚類の目は“さっさとしろ”と命令しているように思えた。
「お待たせしました。早速始めますね」
千亜沙は前技もなしにもう挿入していた。まるでバケモノの声が聞こえた瞬間から期待と興奮で濡れてしまっていたかのように、それはすんなりと入った。
「あ、あぁ、ん、あん!」
響は目を背けなかった。確かにおぞましい光景に違いない。しかし千亜沙は美人でスタイルもいい。醜悪なバケモノと美女という組み合わせは、なんとも言えず幻想的で、背徳的に目に映った。なんといやらしい動きをするのだろう。女が自らの肉体を“肉で出来た道具”と理解したとき、これほど乱暴に、丁寧に、妙技的に繰り出すことができるということ。響は感心さえしていた。そして、認めたくはなかったが、眺める彼女の肉体にも女の反応が出ていることも悟っていた。
「くぅあぁあああああ!」
バケモノが膣内射精したと同時に千亜沙も絶頂した。彼女の潤んだ瞳は想い人に向けられるそれで、まさに種着け真っ最中の主人の奇怪なご尊顔を見つめている。
「私の中に出して、気持ちいいですか? このまましばらく繋がったまま余韻を味わってください」
千亜沙は騎乗位で合体したまま乳房を吸わせ、肉布団となってバケモノを愛撫し、耳元で甘い言葉を囁いている。
「(至れり尽くせりね)」
響は、自慰行為をしていた。せめて指で慰めるのが精一杯だ。
千亜沙は母親になろうとしている。ふと、そう思えた。もちろん、赤ちゃんを孕むことで肉体的に母親へ変身するのだろうけど、今、つがっているあのバケモノにとっての母親でもあろうとしているのではないか。響には予感があった。このまま三人の同棲生活、畸形の男と千亜沙という二匹の狂った怪物と同じ空間に幽閉され続ければ、きっと正常な判断、なけなしの理性も破壊されてしまうだろう。生き恥を曝したくない、未来に絶望しかない、そんな社会から逃げて綺麗に死のうと思っていたのに、酷い有様だ。
「ハンバーグ食べたい・・・」
そう呟くと、食欲も、その他のあらゆる欲求不満は性欲に置換されていく錯覚に捕われる。そして、それを処理する方法は、もう知っている。
08
被爆しているのかどうか実感はないが、響はいたって健康なようだ。虫達による求愛の喧噪も拒絶しなくなっていた。“こんな状況にも慣れてしまうものなんだな”と自らの適応力に感心する。滝で咽を潤してから空のペットボトルに水を入れて持ち帰った響は、それを千亜沙へ渡した。生活用水としても使うが、主に飲料水として二人は回し飲みしている。バケモノも水を飲むが、主に飲むのは水じゃない。
「ウギィ…ア"ーア"ー…」
「はいはい、おっぱいですね、どうぞ♥」
優しい味のする千亜沙の母乳は彼の大好物だった。でかい図体をして歯のない口でしゃぶりつき音を発てながらお乳を吸う姿は無様だったが、千亜沙は頬を赤らめて愛おしそうに頭を撫でている。響も、もうその光景を軽蔑するような気持ちはない。微笑ましいとまでは思わないけれど。
「夢中で飲んで、そんなに美味しいですか? ん♥ おっぱい乱暴にされながらミルク吸われて、私も気持ちいいですよ♥ んはぁ!」
バケモノは性器をギンギンに怒らせて腰をヘコヘコと不格好に振っている。ぽっこりと膨らんだ千亜沙の下腹部に先端が押し付けられ、カウパー駅でへその下あたりをぬるぬると汚されていた。バケモノの目は焦点定まらず血走って、無我夢中で母乳を啜り、そのままの状態で交尾を要求。
「そんなおっきいおちんちんでお腹突いたら、中の赤ちゃんが・・・ぅおぇっ!」
バケモノは身重な千亜沙のことなど気にもかけず、強引にのしかかっていったため、お腹が圧迫されて思わず吐いてしまった。
「千亜沙、大丈夫? こいつどかそうか?」
「い、いいの、ここで拒むと泣いて暴れるから、だから…今、挿れますね」
「一発ヌくだけなら手か口でいいじゃん!」
「ダメなの、この人は…生で、中に出させないと怒るの。たとえお腹に赤ちゃんがいても、受け入れないと赦さないの」
「そんな・・・」
響は背筋がぞくぞくと震えるのを感じた。膨らんでいるとはいえ小さなお腹には、たぶんハツカネズミくらいの胎児が宿っている。そんな状態のお腹で相手を気遣うことができない低能のバケモノとセックスをして、無事で済むのだろうか。万が一があったら、こんな森の奥で何の対応もできない。でも、このままでは千亜沙のことだから、きっとヤッてしまう。
響は意を決して提案した。
「私がするよ」
「え?」
「私がこいつの相手をする。こいつの中出しを受け入れる。だから、千亜沙はおっぱいだけあげてて…」
千亜沙は少し間を置いてから
「響ちゃん…ありがとう…」
と礼を言った。その礼は、もう引き返せないことを示していた。
暗い部屋、夕焼けの暖色な光が小窓から差し込み、響の肢体に美しい陰影をつけている。千亜沙の片乳房を吸いつつ、バケモノは己のイチモツを舐め金玉を揉む響を眺めている。今まで無関心だったもう一匹の牝。まだ胎が空いている牝。響はこれから自分の中に入って来る異性の根に舌を這わせながら、かつて千亜沙がしていた掬うような舐めたかで皮の下の糟までねぶる。酷い臭いと歪な形状、こんなものに純潔を捧げるのか。そう、響はまだ処女だった。
「響ちゃん」
頭の中がぐるぐるして聞こえない。
「響ちゃん!」
どきっとして響が頭を上げる。
「そのまましゃぶりながら、この人の右手のところに響ちゃんのアソコがくるように体勢を変えて」
セックスに関しては少なくとも千亜沙に任せた方がいい。そう考えて響は言われるまま体勢を変えた。
「ほら、響ちゃんのアソコ、綺麗でしょう。まだ一度も誰にも赦したことのない場所、弄って濡らしてあげてください」
千亜沙はバケモノの右手を響きの膣口へ導き、クリトリスを剥き出させた。
「!」
響は男の指が股間から入ってくるのを感じ、恥ずかしさのあまり金玉をほうばったまま硬直してしまう。
「両手に花ですね♥」
バケモノは左半身に密着する千亜沙の母乳を飲みながら左手で千亜沙の身籠った腹を弄り、右半身に密着する響にペニスをしゃぶられながら右手で響のヴァギナを弄っている。汗がにじみ、紅潮する肉体から湯気があがる。響の小振りな胸は、乳首を固く突起させ、逆に眼差しはとろんと弛緩していく。
「響ちゃん、そろそろ挿れよっか」
千亜沙の助言は既に命令となって響を操っているかのようだ。四つん這いになって仰向けのバケモノにふらふら股がると、丸出しに剥かれた亀頭が、空気に振れて寒がっているのが視える。早く、小刻みに痙攣する気持ちのいい肉圧で包み込んでくれと泣いているみたいに思えた。
「じゃあ…挿れるよ…」
呼吸の深さと裏腹に動悸は激しく、意識は朦朧としていく。秘裂にバケモノの陰茎がキスすると、そのまま花弁を押しのけてゆっくり入ってくる体感。響の頬には意味不明の涙が流れていた。いまならまだ引き返すことができるかもしれない。このままコレに貫かれたら、きっともうここに来た意味も生きること自体も、変わってしまう。何もかもひっくり返ってしまう。そんな気がする。
「響ちゃん、あんまり焦らすとこの人が暴れはじめて痛い目にあうよ。だから、思いっきり奥まで突っ込まれて、それから考えよう?」
千亜沙の優しくて危険な言葉が、響の腰を上から押し込んでいくようだ。膣の奥の処女膜をバケモノの先端が押し付けられて、その感触に響はガクガクと震え出したその時、ついにバケモノは自ら腰を突き上げて処女の証を突貫した。
「ひっ!」
響はその衝撃に腰が抜け、結合部に重心が乗るかたちでバケモノの上に落ちた。何者も侵入したことのない聖域、汚れを知らぬ清らかな子宮、その入口に汚濁に汚れたバケモノの発射口が頭を出す。もし出されれば確実に子宮へ直流する角度と距離。無力な膜は引き裂かれ、刺すような破瓜の痛みと熱が下半身に広がり、根元まで埋ずまった異物を膣ひだがぎゅうぎゅうと絞め込み、それはまるで握りつぶしてしまおうかという勢いだった。
「うぁぁぁ〜、、、うあああああ!」
グロテスクな畸形動物によって無造作に狩られた初めては、じわじわと精神的苦痛を増幅させていく。響はガッチリと彼をくわえ込んだままブルブル震え、バケモノと見つめ合っている。それは、目を背けたくても背けられない体勢にる精神の拷問に近かった。
「そうよ、響ちゃん。この人の顔をよ〜っく視て、覚えて、あなたを女にした男よ。この瞬間のこの顔は、一生忘れられない。脳裏に焼き付いてことあるごとに浮かび上がるようになるの。嬉しいときも哀しいときも幸せなときも、この顔が現れるの。そしてこの顔そっくりの赤ちゃんを産めば尚のこと一体になれるわ」
「やだぁ・・・千亜沙やだよぉ・・・こんな顔、吐きそうなくらい不気味な顔、覚えたくないぃぃぃ〜・・・」
「怖がらないで」
千亜沙はバケモノの口からおっぱいを放すと唾液の糸がつーっと光る。千亜沙の乳房は片方ばかり飲まれたために左右で大きさが変わっていた。
「私が後ろで支えててあげるから」
「だめぇ、千亜沙、私の前にいてぇ・・・」
響の視界から千亜沙が消えると、いよいよ繋がり合っているバケモノだけに意識が集中し始める。千亜沙は後ろから響の両手をとって、腹の上から中でそそり立つ男根をぐりぐりと可愛がらせる。
「ひぃぅぅうぅっ! そ、そんなの、そんなのぉぉぉぉっ!」
「こうすると出たり入ったりしなくても、射精させられるのよ。ほら、丁度おへその裏側が先端ね、その少し下、このあたりに亀頭裏の段差があって、特にここを攻める感じ。ね、この動きだよ。今度は自分でやってみて」
千亜沙の命令どおり響は深部に達しているバケモノの剛直を念入りに攻めた。握りつぶす勢いの膣圧も、1秒に2回の小刻みな膣痙攣も、愛液で濡れそぼった熱い膣体温も、バケモノには感電しているような快感を与えている。
「さぁ、おねだりして響ちゃん。赤ちゃん恵んでくださいって言うの」
「千亜沙もう赦して、今日は本当にダメな日だから・・・生理が終わって6日目の、本当に危ない日だから」
「今更だよ響ちゃん。また私に、いつもの格好いい響ちゃんを見せて、ね?」
まともに恋愛もできなかった。
清いからだのまま天国に行くんだと思ってた。
そして、その天国に一番近いこの場所で、真っ逆さまに地獄へ堕ちていく。
「ください! 赤ちゃんの種をっ、精子をっ!
この危険日のっ、処女の子宮にぶち込んでくださいぃぃぃーっ!
あぁぁぁぁあああああーっ!!」
どびゅるるるぅぅっ!!
「はっ———————————・・・・・・」
灼熱の濁流となって粘り気のある精液が爆ぜる。一撃で子宮底に打ちつけられ、二撃で子宮壁に広がり、三撃で胎内を満たした。肚の底で激しく跳ね上がる男根を上から手で押さえ込み、子宮に納まるようコントロールする。今にも意識が飛びそうな響の頭は千亜沙に支えられ、イきながらみっともなく快感にゆがむバケモノの顔を直視させられる。深層意識の中に刻み込まれる。
「おめでとう響ちゃん♪」
千亜沙による祝福の言葉を聞いた響は、そのままだらしなく涎を垂れて気絶した。
09
秋になり、ぐっ気温も下がってきた。三人は布団の中で性器を繋げ暖め合う。だいぶ大きくなった千亜沙のお腹は元気に動く赤ちゃんを触ってみんなに幸せが満ちる。響も妊娠することができた。生理が止まり、つわりと目眩を乗り越えてやっと下腹部に芽吹いたシコリを確認できたときは、希望と絶望とで錯乱もしたが、結局なし崩しに受け入れてしまう。安定期に入る前でも関係なく、妊娠後の性交渉は続いた。バケモノは完全にこの空間の王様となっていて、ボテ腹だろうと容赦なく犯し中に汚濁を垂れ流す。三匹は節操のなただと獣となってイチャイチャ暮らしている。
「産神草(ウブガミソウ)って知ってる?」
布団の中でバケモノの左乳首舐めながら金玉を優しく揉みながら千亜沙が言う。
「ウブガミソウ? ん〜ん、知らない」
響はバケモノと見つめ合いながら舌と舌でべろべろしていたが、一旦息継ぎをして返答した。
「昔おばあちゃんから聞いた話。人里離れた森の奥に群生してる蛇苺のような植物らしいんだ。正式名称はわからないけど、地元の人は産神草って呼んでるの。普段はただの草なんだけど、年に一度だけ、夜に花をつけて、翌朝には実をつける。夜その光景を目にした者は、普段なにもない場所に突如夜中に紫色の花畑が出現して、狐に化かされたかと勘違いしたそうよ」
「へ〜、ちょっと見てみたいね」
響はミルクを作りはじめた乳房の先端をぴんっと立たせて、バケモノの右乳首にぐりぐりと当てている。
「私たちみたいじゃない?」
「何が?」
「産神草」
バケモノの左横腹に押し付けられた今にも爆発しそうな千亜沙の臨月の腹はむくむくと胎動して、しきりに父親へ存在をアピールしているようだ。
「その実はどうなるの?」
「そこから先は知らないなぁ・・・」
遠雷と共にキューブへ風がぶつかる音が聞こえた。嵐が迫っているのだ。
真っ暗闇の中で、何本もの気が倒れる轟音が響いた。落雷が森に突き刺さり、暴風雨があらゆるものを上空へ吹き飛ばした。普段実を清めるための滝も、濁流となってキューブを飲み込んでいる。
「ハァ、ハァ、響ちゃ・・・ん」
小刻みな陣痛からすぐに破水し、千亜沙は木の枝を咬みながら必死に初産の苦痛に堪えていた。羊水でびしょびしょのキューブ内は牝特有の肉の香りが充満し、バケモノを興奮させている。
「あ、あなたの子ですよ、よく視ていてください、、産声を聞いていてください・・・はっぅうぅっ!」
その時、キュープ奥の倉庫がけたたましい轟音とともに歪み、扉から泥と水が流れ込んで来た。ランプの灯りは一瞬で消え、足下にドロドロとした土の感触を感じる。
「千亜沙!」
響は分娩真っ最中の千亜沙を抱えてキューブの鉄扉に体当たりする。
バリバリバリッ!
巨大なものが剥がれ落ちる音。強風と泥の濁流とが非力な二人の妊婦を押し流す。
「響ちゃん! 産まれる! 産まれるの! 私はいいから、この子だけでも助けてぇっ!!」
キューブが傾いたまま地中へ消えていくように見えた。土砂崩れだった。その刹那、遠くであのバケモノの断末魔の絶叫が聞こえた気がした。
「千亜沙! 千亜沙ぁ!」
二人は泥沼に嵌り、痛いくらいの激しい雨に打たれ、呼吸さえろくにできない。そして、無数にうねうね全身まとわりつく生物の感触。ミミズだ。大量のミミズや、その他の生物たちが二人と同じ泥沼に追いやられていた。立て続けに閃光が走り、その間に血にまみれた股間から赤ん坊の頭を出している千亜沙が確認できる。千亜沙の下半身は半分泥水に埋まり。まさに産まれてきた場所のあたりをミミズの群れがのたうっている。響は吐きそうになりながら、泥から這い上がり、シダ植物の生い茂る老木の背に移動する。産道に挟まったまま頭だけ出してこっちを視ている赤ん坊は、父親の遺伝子を色濃く受け継いでいて、魚類のような曇った眼を響に向けていた。そして、赤ん坊と産道の隙間に押し込まれたミミズ達が、代わりに千亜沙の子宮へ必死に潜り込もうとしている。千亜沙はずっと引きつった笑みを浮かべ、眼球はひっくり返ったまま、全身を痙攣させている。
「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!」
嵐が過ぎ去り、森に朝日が差し込む頃、響はようやく千亜沙が死んでいることに気づいた。
10
ベルトコンベアに乗って運ばれてくるストローを紙パックにくっつけていく。この単純作業はカラフルなはずの容器と作業服の色彩をモノクロに変え、意識を鈍化させた。周りにいる作業員は全員自分のクローン・・・いや、自分だってオリジナルかどうか怪しい。暗い作業場の機材は遠近感を失い、ルーティンシートは文字化けし、命ある生き物の確証を欠いた世界へと加速していた。
暗い空間の奥にPCのモニターがある。モニターの向こう側には女、名前を“どらむ”と言った。彼女はなめらかな瞳の表面に反射光を映し、無表情のままベルトコンベアの前で働く女を眺めていた。その姿はまるで蟻のようだと思った。ただ生きて、ただ死ぬ以外のどんな可能性も感じられなかった。悪寒が走って“どらむ”はPCの後ろをふり返る。そこには毛皮や宝石がパチンコ玉の詰まったケースが一緒くたにうずたかく積まれ、その上でラクダのような顔の生き物が昼ドラを見ている。
「それはあんたのものじゃない!」
“どらむ”が声を張り上げると同時に金槌が振り下ろされる映像がフェードインし、ラクダ顔の生き物は弾け飛んで、床から上空へ向けて血の玉がしたたっていく。大きく呼吸して落ち着こうとすると、手の中で金槌がもぞもぞと動いた。握る金槌から魚類のような混濁とした眼がこちらを凝視している。
「ひ!」
思わずそれを放り出して“どらむ”は駈けだしていた。
「だめだよ、そんなことしちゃ」
ふわふわと白く発光する女が優しい声で諭す。
「こんなの違う! こんなの私じゃない!」
“どらむ”は走りながら町並みがどんどん旺盛な植物に覆われ、文明らしきものが崩れていくのを見ながら、光る女に向かって叫んだ。気が付くと“どらむ”は衣服がさらさらと消えて、響という別人に、或いは本来の姿に変身していた。辿り着いた先はぐねぐねと目まぐるしくカタチを変える赤い雲の下、眼前には巨大な立方体のシルエットが立ちはだかる。後ろを向けば、PCモニタに映る“どらむ”の姿。“どらむ”は響に向かって冷たく言い放つ。
「母親を殺しておいて母親になるつもり?」
足下には血まみれ金槌が目を剥いて奇声を上げている。
「それがあなたの罪、あなたの裁きよ」
「殺すつもりなんてなかった・・・本当に、これを振り下ろす瞬間まで、本当にそんなつもりはなかったの」
「私たちの母親はダメ人間かもしれないけど、私たちをここまで育てるのにできる限りのことをした。男の力も国の力も利用した。」
誇りを失って生き恥を曝した女。それは母親だったか、自分だったか。
気が付くと響の腹は膨らんでいた。中からあの性欲処理用の女を呼ぶおぞましい奇声が聞こえる。
「今度はあなたが我が子に裁かれる番」
そう言ったのは逆さまになった千亜沙の股間から頭を出してこっちを視ている不気味な赤ん坊だ。千亜沙の白い肉体は、ミミズやナメクジやムカデやヤマヒルが群がって見えなくなっていく。森の奥から巨大な生物たちがぞろぞろと現れ、それはカラスの頭をつけた虫や、無数の足がある魚、背中からうじゃうじゃ寄生虫を生やした芋虫のような姿をし、彼等は響の腹に宿った命を、自分たちの子として産み育てることを脅迫しているようだった。
響は逃げた。
走って走って、怪物共を振り切った。
そして気がつくと、夜の花畑に佇んでいることに気づく。
淡い紫色の花が絨毯のように広がっている。
産神草・・・一夜だけ可憐に咲き、実をつけた後のことは誰も知らない・・・。
帰ろう。
響は森を抜け、車道に出ていた。誰もいない山間の車道。ここはまだ立入禁止区域だろうが、この道をたどればいつか人間社会に戻れるかもしれない。その先に何があるのか、母親を殺し、千亜沙を死なせ、腹にはバケモノの子を宿して、どんな運命が待ち構えているのか知れない。あのキューブは何だったのか、あのバケモノは何だったのか、今それを知る必要はない。母親になって、もう一度考える。もちろん、このまま生きて帰れれば・・・だけれど。
響は重たい腹を抱え、寒さに立ち向かうように全身から湯気を出しながら、全裸のまま、人の道を歩いていった。
おわり