02.姫子(その2)

食料庫の中、澪は姫子を抱き撫でながら泣いていた。
姫子は震えていたが放心状態に近い様子で
汗も涙も流していない。ただ一点、宙を見つめている。
小振りな乳房がぷるぷる震え、純白の肌が透けてしまいそう…。
こんな残酷な話はない…澪は心が張り裂けそうだ。
姫子は幸薄い女の子だった。
昆虫博物館の娘というだけで虐めの対象となり、
クラスからは『虫女』とあだ名される。
ノートや教科書に落書きされ、雑巾を投げ付けられたり、
悪質なものになればわざわざ姫子の机や上履きの中に
入れるためにゴキブリの死骸を学校に持ってくる者もいた。
例のごとく教師は黙殺し、クラスのほとんどが傍観する。
そんな環境下にあっても姫子は逆らわなかった。
元々おとなしい性格で、内罰思考が強く、決して誰かを
怨んだりすることなく、すべて自分の責任だと自らを責めた。
それに、姫子は虫が好きだった。
クラスでは『醜いもの』『軽蔑の対象』として嫌悪される
この存在を、どうしても嫌うことができなかったのだ。
母親は姫子が小学校に入ってすぐ死んでしまった。
博物館の館長でもある父親の元で淑やかに育ち、
喧嘩したり騒いだりもせず、虫ばかり見て暮らしてきた。
昆虫とは徹底的に簡略化された機能美の生き物だ。
各セクションで統括された共同体。一点に特化した能力。
集団による擬態の知恵。複眼から見た世界の神秘。
なにより『変身』という性質に魅了される。
こんなことがあった。
それはいつものように虐められ、部屋で泣いていた日。
父親が姫子を呼んだ。ぐずつく姫子が小走りする父の後を
追うと、閉館して誰もいない昆虫博物館へ来ていた。
電気の消えた館内は非常口のグリーンの案内灯と
飼育槽内の淡い光によって不思議な空間と化していた。
見てごらん---と指す父親の先には細くて高い草の茎、
そこにしがみつく小さな蛹の姿があった。
父親はそれ以外何も語らず、姫子も黙ってそれを見つめていた。
やがて蛹から柔らかい羽が覗き、すらりとした胴が現れると、
それはゆっくり…ゆっくり羽を広げていく…。
瑠璃色のきらびやかで気品ある美しさ。
蛹は蝶になったのだ。
姫子は時を忘れて見つめ続けた。感激のあまり涙を流しながら。
そして理解した。
誰でも最初から蝶なわけじゃない。
蝶になるのだ。
姫子はいままでイモムシがあまり好きではなかったが、
その変身の下で葉をかじる一匹のイモムシに気付くと
もう不快感はなかった。
私はイモムシだ。
立ち上がって父親に向かい笑った。
蝶になるのだ。
それから姫子は虐めに堪え続けた。
何があってもやり返さず、誰かに助けを求めることもなく、
しかし一度も逃げることなく、ついに小学校の課程をやり遂げる。
澪とは中学で知り合った。『虫女』の話は澪の耳にも入っていたが、
澪の姫子に対するイメージは出会った瞬間覆される。
姫子は驚くほどの美少女だった。
白い肌と物憂気な眼差し、線の細い人形のような女の子で、
ややもすれば回りがそのあまりにエキゾチックな雰囲気に飲まれ、
虐めという歪んだコミュニケーションを計っていたのではないか。
澪は姫子とすぐに仲良くなった。
姫子は確かに一風変わっていて、虫の話を比喩にして
人が生きていくということ、この世に命が存在する意味なんかを
それはそれは楽し気に熱弁し、今まで友達がいなかった
フラストレーションが爆発したようによく喋るようになる。
悩みはなんでも相談したし、遊びも森林浴だったり芋掘りだったり、
ちょっとない趣向のものが多く、それが澪には新鮮だった。
しかし、母親に続いて父親がガンで他界。
ひとり残された姫子は、博物館の所有権他、今後の配分などで、
親戚が揉め板挟みとなり、結果いいように食い物にされている。
幼稚な昔のいじめっこも陰湿にちょっかいを出し、
加えて成績の悪さを攻められ、大人からも圧力を受け、
心の支えであった父親を失った悲しみで、今にも壊れてしまいそうな
姫子の姿に、澪は自分の無力が悔しくてならなかった。
そんなときだ、曽根原 雅彦に会ったのは。
雅彦は政治家の息子で紳士的に思えた。
特に姫子は男に免疫がなく、デートどころかろくすっぽ口も
きいたことがない温室育ち。気晴らしに男の子と遊んで
パッと嫌なことを吹き飛ばそうと考え、このクルーザーへ乗り込んだ。
「澪ちゃん…わたしたち…殺されちゃうの?」
澪はビクッとして言葉が返せず、せめてせめて姫子を強く抱き締めた。
「(…こんなのってない。どうして姫子にばかりこんな酷いことが…
 神様、いるならどうか私たちを助けて下さい!)」
これから訪れる地獄は、ふたりの想像を遥かに絶しているとも知らずに。

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