異変に気がついたのは雅彦だった。
竹村の死体を海に捨てたと同時に、ソレが
クルーザーの底から上がってくるのを見てしまう。
---何だこいつは!?
霧が深く、2〜3メートル先も見えない視界。
ハッキリそれが脅威であることを認識するのに
雅彦は2分を費やし、その間隙は
手遅れを引き起こすにまったく適当であった。
「うおおぉぉぉっっ!!」
驚愕の悲鳴は隆司のものだ。
隆司は雅彦に死体の処理をやらせ、甲板でタバコを
蒸かしていたが、頭の中は姫子をどういたぶるかで
妄執し、その背後に誰かいようなどと気を回す暇などなく、
気が付けば巨影にしがみつかれている。
「バッ、、、化け物!」
雅彦は目を疑った。
それは確かに虫のようで、蛾の幼虫にも似た姿をし、
しかしながら大きさは牛ほどもある。
その瞬間、海から上がってこようとしている何かが、
これであることを悟り、雅彦は船端から身を引くと、
その対極からも一匹、舳からも一匹よじ登ってくるのを見取る。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!」
雅彦は腰を抜かし四つん這いになりながら這い逃げ、
それでも視線はイモムシの怪物から離すことはできない。
徐々に鮮明になっていく姿は、より精神を戦慄させた。
伸縮するヒダ、並んだフシ、グロテスクな斑模様、
イソギンチャクのような足を無数に左右へ生やしている。
それは筆舌しがたく…巨大でおぞましい『絶望』だった。
何事かと麗香が甲板への出入り口に手をかけた瞬間、
サッカーボールほどの大きさに丸く張られたガラス窓を覗いて
言葉を失う。それは、ありえない…あってはならない光景。
「麗香! た、、助けてくれ、、手、引っ張ってくれ!」
情けなくへたり込んだ雅彦が鼻水をぶら下げて懇願している。
---ガチャ
麗香は内側から鍵を締め、後ずさり、混乱のあまり
ぶつぶつ意味のない独り言を喋り始める。
びたっ!
くぐもった不快音にびくっとこわばって船先を一望できる
一面の窓を見て一瞬、硬直した。そして
「キャァァァァァァァァッ!!!」
つんざくような金切り声を上げて裂けんばかりに眼を剥き、
その勢いで椅子と縺れ床へ倒れ込む麗香。
窓にはこの世のモノとは思えない無気味な生物が貼り付き
外ガラスを粘液で汚していた。
取り乱し、ガチガチ歯を鳴らす麗香は恐怖で一歩も動けず、
ガラスの表面をパクパクと口で舐めるおぞましい怪物の姿を
否応なく目に焼きつけていく。
…虫…なのか?
定かでない。遠雷のようなアレの鳴声が窓越しに聞こえる。
はらは躍動し、血管が浮き出て、カエルのようでもある。
とにかく何よりデカすぎる。
巨大であるということは本能的にも恐怖の助長となり、
ムカデのように胴体の両脇に並んだイソギンチャクのような足は、
くすんだ橙色と白に近いダークイエローのぶよぶよの皮膚から
生え出し、その足ひとつひとつが、束になった真っ赤な
ミミズのようで、うねうねと踊り狂っている様は
さらなる嫌悪感の畳み掛けという生理的陵辱で麗香を侵食する。
南米のオバケみたいなケムシでも、ここまで恐ろしい姿はないだろう。
ドンドンドン!
ドアを叩く、雅彦の恫喝にも似た悲鳴は「開けろ開けろ」の連呼。
とにかくこの海域から逃げなければならない。
咄嗟に解答は行動へ結びつき、麗香はクルーザーのエンジンを駆けた。
運転は遊びでかじってはいたが真面目に憶えてなどいない、
それでもとにかくコンピューターを叩き必死に弄り続けた。
舵はクルーザーの外、この屋根の上にある。
でも自動操縦で指定のポイントへ移動させるくらいは可能か…、
とにかく全速力でここから離れるのだ。
定めるべき進路はデタラメで構わない、一刻も早く!
船体が揺れスクリューが回転し、方向転換しようと始動するクルーザー。
「急げ! 急いでよ!!」
怒りとショックとで地団駄を踏む麗香を、今度は前方の窓に回った
雅彦が絶叫で中に入れろと蹴る殴るを繰り返し始めた。
もちろんクルーザーの強化ガラスはびくともしない。
「離れろ! 畜生! このクソがぁっ!!」
巨大な怪虫二匹に捕まった隆司は暴れ回り、動く甲板の上で
もがき続けたが、あまりに重く肉の厚いそれに対しては無力だった。
今まで何人もの女を殴ってきた拳が、これほど非力だったとは…
暴力以外に何一つ誇れるもののない隆司は逆上し、七転八倒のあげく
バランスを崩し、怪虫ごと船尾から海へと振り落ち、同時に
ガガガガガガガガ!!!
折角動きだしたクルーザーが停止してしまう。
突然のエラー音。麗香は赤く緊急表示されたモニターの文字を追った。
「スクリュー…トラブル」
----プロペラ部に異物が巻き込まれました----
---異物を取り除いてから再度発進して下さい---
トラブルを解消するようメッセージが表示されているが、当然麗香には
出来ない。SOSしたくとも、ここは通信不能の海域である。
麗香は幾多の男を惑わしてきた美貌が引きつっているのを実感した。
「うわぁぁぁぁっ! うわあぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
雅彦は号泣しながら窓を殴り続け、拳を真っ赤に血染めてから、
目前に迫った二匹の怪虫の存在に、我も忘れて駆け出した。
そのまま霧深い海の中へ飛び込むと死にもの狂いで泳ぎ続ける。
あの船はもう駄目だ。怪物に占領されてしまった。
とにかく逃げるしかない。できるだけ遠く、安全な場所まで!
雅彦は泳いだ。
泳いで、泳いで、泳いで、泳いで…少しづつ冷静さを取り戻しながら、
漠然と考えてもいた。
何もないじゃないか…ここにも…自分にも…。
何もかも手に入った人生のはずが…この海の上で今、
自分には何もないという不条理に気が付いていた。
笑える。
波は穏やかで、気温も暖かい。
「誰か…」
それでも頑張って泳いだ雅彦であったが、2時間ほど経過したころには
力尽き、ゆっくりと海底へ沈んでいった。