静かだった。
閉じ込められた倉庫の外で何があったのか、
ガリガリと床下から振動した機械音から2時間くらい…
尤も、姫子も澪と同じくそう体感していたかどうかは定かでない。
「澪ちゃん…」
「何?」
「わたし…よく憶えてないの、無我夢中だったから…」
「うん?」
「わたし、人を殺してしまったの?」
澪は言葉に詰まった。
姫子は自分が人殺しになってしまったと思っている。
違う! あれは事故だったし、仮に殺意を持っていたとしても
正当防衛だ。…でも、そんな理屈で姫子の自虐癖は納得などしないだろう。
きっとまた自分を責める。
時々澪は思うのだ。乱暴かもしれないが、姫子のこの内罰思考が
うっとおしくてならないとも。そうやって「わたしが悪いんです」と
闘わず済ませてしまうのは楽かもしれないが、端から見ていれば
カンに触る発想でもあった。
「(あいつらは死んで当然の人間だった)」
内心毒づいてみたが、目の前で澪の答えを不安気に待つ姫子に向かって
発せられる類いではない。
「それより今はどうやって切り抜けるか考えないと…」
澪は非生産的な意見には付き合わず論点をずらしてやりすごす。
姫子にしてみれば、これは『イエス』という解答と同義語だ。
この質問をすべきか葛藤した時間は真っ暗闇だったことだろう。
姫子は自らの血を吸っている蚊ですら決してその命を奪うことはなかった。
その彼女が人を殺したという大罪に耐えられるかどうか…
澪に訊ねた瞬間、心に宿していたのは覚悟にも似た自決意思。
「澪ちゃん…わたし…あのね…」
すがるような眼差しで姫子は澪に付く手に力を込めた。
「予感がするの…さっきから船の外に誰かがいるって…」
「え!? 救助か警察? 海上パトロールみたいな」
「違うの、もっとこう…別の世界からきた…」
澪はため息をつき姫子を撫でると優しく問う。
「そんなものがいったい何でいるの?」
「きっとわたしを連れていくために…」
「その世界へ? 姫子は何の罪も犯してないのに?」
思わず姫子が言うより先に釘を刺してしまった。
姫子は否定さえせず俯く。
「わたし…この世界にいちゃいけないのよ…
ずっとずっと違和感があった。ここでわたしは異物なんだって」
「姫子! 妄想は家に帰ってからしようよ、今はさ、とにかく…」
ガチャ!
ふたりの少女はビクッとおののいた。
倉庫の鍵が開けられたのである。
「姫子、何があっても私が側にいるからね」
姫子はゼンマイの切れたオモチャのように止まってしまった。
ゆっくりと開いたドアの先、人影がひとつ揺れている。
麗香だ。様子がおかしい。
電気がパチパチと明滅し、外は薄暗く、前面のガラスには
モニターの光りが反射してか、赤く発色していた。
「出てきなよ」
かすれた声で麗香がふたりを呼び、恐る恐る澪を先頭にして
倉庫から這い出る。蛍光灯が沈黙し、暗い船内はギシギシと
軋む音、ボゥボゥという風の音とで無気味な空間と化していた。
「あんたたちのことすっかり忘れてたわ…アハハ…」
麗香は窓を背にしているので、切り絵のようにポッカリ黒く浮かび、
表情が悟れない。ただ…尋常じゃないことは確かだ。
仲間がひとり死んだのだから当然と言えば当然ではあったが…
この違和感は、さっきまでとは明らかに何かが違っている。
澪が立ち上がると目線は上昇し、ビキニ姿の麗香が
その美しいプロポーションをシルエットで際立たせ、
それが幻想的でもあり、リアリティーを希薄にしていった。
「で、どうするの?」
澪は麗香を睨みながら精一杯の虚勢を張り仁王立ち。
パチパチッと天井のライトがコンマ数秒生き返った
その一瞬、照らし出された麗香の顔は…嘲笑。
泳いできたかのように全身汗に濡れ、手には携帯電話を持っている。
「私ならどんないたぶりでも受けるから…この子には手を出さないで」
澪も恐怖で叫びそうだったが、渾身の勇気で願い出た。
姫子は挙動不信に見回して、とりわけ外を気にしているようだ。
「あぁ…そうね、それでもいいわ。言うこと聞いてくれんでしょ?」
麗香のシルエットはゆらゆらと広がっていく。
「で、麗香さん。他のふたりは?」
「たぶんその辺にいるんじゃん」
眼前に近付いた麗香の息が澪の顎を掠めた。
「澪ちゃんッ!!」
突然の大声に澪と麗香が反応する。
震える姫子の手が指すのは窓の外に貼り付く巨大な物体。
エラーランプに赤く照らされ、その異形が徐々に明瞭化していくと…
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
澪が驚愕のあまり絶叫した。
怪獣。それも信じ難いほど醜くおぞましい姿の!
「ね? 私の気持ち解ったでしょ? 超キモいの」
麗香はヘラヘラ力無く笑いながら澪にじり寄る。
「ありえなくない? あんなのがいんの」
にわかに理解できない澪だったが、とにかく唯事じゃない。
「…パパ…なの?」
姫子が怪虫を見ながら呟く。
ハッとした澪が麗香に向き直って迫った。
「何! どうする気!」
「だからぁ〜、ちょっとオツカイに行って欲しいのよ」
ニヤニヤとする表情にも追い詰められている様子がありありと出ていた。
「男に行かせればいいでしょ!」
「道草してんのか…まだ外から帰ってこないのよね…」
間違いない、今、この船には澪と姫子と麗香しかいないのだ。
確かにこれは異常事態であったが、結果的に見れば2対1。
しかも相手は女ひとりだ。千載一遇のチャンスかもしれない。
「ねぇ麗香…頼みごとする割に態度デカいんじゃない?」
「あ?」
「立場は逆転したって言ってんのよ」
「あぁ、澪。私のこと名前で呼んでくれるのね
…まだ友達だと思ってくれてるんだ」
「ふざけんじゃないわよ。姫子と同じだけアザだらけにしてあげようか!」
また蛍光灯がチリチリと、いよいよ虫の息となった光りを放つ。
そこに浮かんだのは朧げな麗香の顔。
涙だ。泣いている。
「お願いよ澪…ちょっと行ってスクリューの異物を取るだけだから…」
「姫子に謝るのよ!」
聞く耳持たず澪が怒鳴った。
震えて鼻をすすりながら麗香はへたりこんでいる姫子の前にしゃがんだ。
「さぁ!」
「…澪」
麗香はそうモゴモゴ口の中でぼやくと突然、
ガッと姫子の髪の毛を鷲掴み引き寄せ恫喝!
「外行って取ってこいっつってんだよ!」
麗香の携帯電話が姫子の顔近くでバチバチと青い火花を散らす。
それは携帯電話などではなかった。
「姫子!」
「調子クれてんじゃねーよ! さっさと行くんだよッ!」
ほとんど金切り声だ。
ここで躊躇すれば本当に取り返しの付かないことをやりかねないだろう。
「わかった! 行くから、姫子には手を出さないで」
澪は外扉のほうへゆっくり移動しながら麗香を宥めた。