05.澪(その2)

スクリューに絡まった異物を取り除く。
これはちょっと冷静に考えれば容易でないことくらい想像が付く。
これだけ豪華なクルーザーだ。その力を止めたとなれば…
「(こいつらか…)」
澪は眉間に皺を寄せながら化け物を一瞥した。
「何のろのろやってんのよ、さっさと行けバカ!」
麗香は何度目かの催促をしたが、実際にゆっくりだが外への
出入り口に近付いて行く澪に具体的な行動が起こせない。
澪は澪で必死に考えていた。
このまま外へ出て、化け物をかいくぐりながら女一人の力で
異物を取り除くことなど可能だろうか?
それが出来なかったから男たちは帰ってこなかったのではないか?
軽々にこのドアを出るのは自殺行為だ。

「澪ォォォォォッ!!」

麗香は絶叫。スタンガンを姫子の顔面に押し当てる。
「あと10秒以内に出てけよ…顔、焼くよ、マジで…」
恐怖で小さく唸っている姫子に振り返って澪は笑顔を作り
「姫子、大丈夫だよ、すぐ戻るからね」
と優しく言って聞かせ、覚悟を決めて外へ飛び出した。

ガチャン!

ドアが閉ったと同時に掴んでいた姫子の髪を床へ放り投げ
麗香が直ぐさま走り出入り口の鍵を閉める。
ハァハァと息を切らせながら麗香は口の端をキュッと上に歪め
「異物が取れてエラーが消えたら発進するわ。もちろん
 ドアは開けないでね…くくく、、、精々心の中で応援しなよ。
 澪が失敗したらあんたに行ってもらうからね」
と毒付いたが姫子に麗香の声は聞こえてなかった。
全ての音が消えてただ一点、その視線は虫の怪物に向けられている。
不思議だった。
麗香のことは恐ろしかったが、あの虫はまるで怖くない。
「…迎えにきたんだ。私を迎えに…」
ガラスに貼り付いていた怪虫は澪に気が付いたのか
スローペースで移動を開始した。
船尾での作業だ。ここから澪の姿は確認できない。
「パパ…私はここだよ、早く連れ出して…」
姫子が思わず立ち上がる。
「何勝手に立ってんのよ、座れよ!」
麗香が鋭く光った目を上下させながら脅すが姫子は聞こえない。
「パパ、私頑張ったよ、ママがいなくなっても…パパがいるから
 めげないで頑張ったのに…解ったの…私はこの世界の人間じゃないって。
 連れてって! そっちの世界へ!」
「聞こえねーのかよ! 座れっつってんだろ!」
「私、蝶になれなかった。ここは地中だもん。だから…」
キモい女…そう軽蔑の眼差しで姫子を睨んでいた麗香だったが、
ハッと気が付く。姫子の瞳が前面の窓から麗香の後ろにある出入り口へ
移動していることを…。大きく呼吸しながらゆっくりと麗香は振り返る。

「ぎゃぁぁぁぁぁぁ!!」

顔面蒼白の麗香。ドアの円形窓に肉のうねりが密着している。
まさにドア全面に貼り付いて中の様子を伺っているようだ。
「ちくしょぉぉぉ!」
麗香は叫びながら引け腰でドアにスタンガンを押し当てる。

バリバリバリバリバリバリッ!!

それがドアノブの金具に触れたその時。濡れたマットを叩くような
潰れた音と共に怪虫がドアから剥がれるのが分かった。
「だめぇぇぇぇぇ!」
姫子が急に取り乱し両手を前にして駆け出す。

どん!

バチィッ!!

姫子の掌が麗香の背中を押した瞬間。無言のまま麗香は跳ね上がって
床に転がった。姫子は突然麗香が何をしているのか理解できなかったが、
最初からここで起きていることは不条理ばかりだ。
姫子はドアに向き直った。
ぽっかり浮かんだ黒い円形窓を凝視する。
麗香は痙攣しながら姫子を見た。眼球が震えて上手く捕捉できない。
「(ヒ、メ、コ、よ、く、も、、)」
声は愚か息も出来ない。鳩尾が痛む。首から鎖骨に伸びる筋肉が
強張って、咳き込むこと数回。少し落ち着いてきた麗香は
再び視認した姫子の姿にゾクッと背筋を氷らせた。
「な、、何、して、、んのよ、、」
姫子が恐る恐る握ったドアノブは、まだ少し熱を持っている。
「ま、まさか、、」
真っ黒に影が落ち、時々エラーライトの明滅で、そのウェーブを画いた
髪の輪郭だけが形付く姫子。掴んでいる手首を回し始める。
「や、やだ…やめてェ」
麗香は痙攣が治まらず立ち上がることができない。
全身からザァッと血の気が引くのを体感していた。
「ひ!」
ついにドアは開き、霧が部屋へと侵入する。
じっとり湿った暗闇の先へ向かって姫子は微笑んだ。
「会いたかったよ、パパ…」

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