07.澪(その4)

今は恐怖に浸ってる余裕なんてない。
一刻も早く姫子を助けるのだ。
ランプの役割を果たした怪虫は黒く冷たい塊に果て、
なんとか見えてる間にスクリューの異物を取り除くことができて幸いだった。
異物の除去の最中は姫子との思い出で頭をいっぱいにして行い、
そのおかげで、異物が隆司であることにも気付かずに済んだ。
海の中では唯一の優位点である起動力が活かせない。
直ぐさま甲板へ戻って警戒しながら上部操縦塔へ戻る。
さっきの突然丸まった虫はいなくなっていた。
少なくともあと一匹。
信号弾はもうない。
それ以外にも問題があった。
飯塚 麗香。
彼女が易々と船内に入れてくれるとは思えない。
復讐を恐れて姫子を人質に立てこもり、
そのまま岸へ向かう可能性がある。
そうなれば、不安定な船上で武器もなしに怪虫と対峙しなくてはならず、
さらに船内では精神的に錯乱した麗香が、ちょっとした事でささくれ立ち、
姫子にスタンガンを使用してしまうことだってありうるのだ。
どうする。
どうやって中に入ればいい?
船内は真っ暗に見えた。
エラーランプが消えているということは、発進できるということ。
でも、今まだ動いていないのだから、麗香は気が付いていない?
なら情報は与えないほうがいいか。
仮にもう怪物がいないと言っても、さっきの丸まった怪虫が接近してきたらそれまで。
麗香に交渉すれば、流れで異物除去に成功したことは知られてしまうだろう。
何か取引材料が必要だ。
「…!」
澪はハッとした。
ここにも操縦桿がある。
つまりここからも船が動かせるってことだ。
澪は舵を目一杯左へ切り、ボンベを止めていたゴムベルトで固定した。
雰囲気からして麗香は船の操縦に関して素人だ。
もちろん澪も素人ではあったが、舵を固定しているということは
ハッタリの材料になる。
船内に入れてくれなければ舵を解かない。
この状態で発進しても、同じ場所をぐるぐる旋回するだけだ。
もちろんその通りになるかどうかは分からない。
案外、船内の舵に簡単に切り替わって、上部操縦塔は意味を無くしてしまうかもしれない。
いや、すでにメインは船内の操縦桿で、これはサブにすぎないと考えるのが妥当だろう。
問題は混乱している麗香がどこまで口車に乗ってくるかだった。
逆に、本当に同じ場所を旋回するだけという現象が起きたなら、
船内に入れる駆け引きは有利になるものの、これで乗ってこなかったら
かなりの長期戦を覚悟しなくてはならなかった。
…考えている暇はない。
澪は意を決して船内出入口へ向かう。
恐怖と責任感がせめぎあって、ようやく感情を制御できている。
水で目を開けるのがつらい。
息をゆっくり吐きうつ向き加減に直立して開始。
「戻ったわよ!」
澪は怒鳴ってドアに手をやる。
そして…

ガチャ!

ドアが開いてる。
「(まさか)」
澪は恐る恐る船内へと足を踏み入れた。
真っ暗だ。
ポッカリと切り抜いた影絵のように、外を映すガラス窓を背景にして
無機質な空間が演出されている。
「姫子!」
「ひ!」
澪は足下のほうから聞こえた情けない反応に目を凝らす。
麗香だ。
「麗香! 姫子は何処!?」
麗香はぶるぶる震えて無表情なまま、澪たちが閉じ込められていた食料庫を指差した。
食料庫の扉が船の揺れでわずかに開いたり閉じたりし、
その都度、光の縦筋が浮かんだ。
食料庫はバッテリーが別途に分けられていたのか電気が付いているということ。
ゆっくりと澪は食料庫に向かって歩きはじめた。
「ま、待って澪! 行かないで、一人にしないでよ!
 あのキモ女のせーで感電して動けないのよ! 澪!」
麗香の言葉を無視して澪は歩き続ける。
「姫子、いるんでしょ? 返事をして、もう大丈夫だから」
応えはない。
しかしかすかに聞こえるのは、せつない嗚咽。
光のラインがパッと見える度に姫子の声と思わしい吃逆のような呼吸音が
断続的に漏れて聞き取れた。
近付くにつれて不安が込み上げる。
澪が歩いて来た足跡がびっしょりと濡れて滑りそうだ。
最悪の想像が脳裏をよぎる。
姫子は、食料庫の中で、今、ひとりじゃない…。
「姫子、何してるの? そこに誰かいるの?」
澪は唾を飲み込んでノブに手をかけた。

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