09.虫(その2)

澪はたぶん悲鳴を上げていた…
だが、自身にそれは聞こえていなかった。
今までの姫子との思い出が走馬燈のように次々溢れ出し、
それをさせなかったからだ 。
「うわぁあああああああ!」
澪は、とても覚悟とは呼べない意志の力で怪物に乗りかかり
死にものぐるいで姫子からケダモノを剥がそうとする。
怪虫の巨体は重く、ぬめってビクともしない。
奇っ怪な音が倉庫に響く。
こいつの鳴き声か。
ヴァイオリンの音をスロー再生したような、
悲痛感を漂わせる音波の振動。
身の毛もよだつとはこのことだった。
バランスを崩して押し返された澪は、
つんのめり両足を宙に投げ出すくらい大袈裟に倒れたが、
自分が倒れたこともすぐには理解できなかったようで、
じたばたと動き、粘液に足をとられながら必至に立ち上がる。
ダメだ。
このままこれを続けていたら成果がない。
同じ行動を繰り返すことで、やがて気持ちが落ち着いてくる。
落ち着いたら・・・きっと体が竦んでもう立ち向かえない。
「ハッ! うぅ! ああああああ〜・・・」
澪は呼吸をする都度、感情にまかせ意味不明の唸りを上げた。
振り返って船内を見渡す。
涙で曇った眼を何度も拭ったが、見えるのは黒と赤い光の玉模様だけ。
素手ではどうにもならない。
武器だ、何か武器がいる。
イスも机も床に固定されていて使えないし、発光弾ももうなかった。
そこで
ハッと思い出す。
「レイカ!レイカぁあ!」
麗香はかぶりをうろうろさせながら何か独り言を呟いていた。
「スタンガンはどこ!」
答えが返ってくるより先に麗香の後ろへ転がっているスタンガンを視界にとらえた澪は、
無我夢中で掴みとり、いまだ親友を貪る化け物に向けて突進する。
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
虫のゴムみたいな皮膚にスタンガンの先端が食い込む。
が、放電しない。
こんなぶくぶくと肥大した体にも神経が通っているのか、
怪虫が胴をコメツキバッタのように機敏に揺らして、
かすかに金属が食い込んだ痛みを払おうと暴れる。
その動きに連動して、繋がり合っている姫子の細くて白い両の脚が、
空しくひょろひょろと反応していた。
澪は今、手にしているものが武器である以上の認識を失っている。
ひたすらそのスタンガンで殴り続けるしか出来なくなっていた。

バチィッ!

ギィィィィィムァァァァァッッ!!!

けたたましい不快音。
思わず麗香が耳を塞いで蹲る。
それが怪虫の絶叫であることを理解した者はその場にいただろうか。
運良く勢いで触れたスタンガンのスイッチ。
蠢く醜悪な図体をもんどり打って、ついに姫子から離れた。
「姫子!姫子しっかりして!」
スタンガンを投げ出し、ぐったりとした姫子を抱き上げる。
こんなに華奢で弱々しい体が、この怪物に暴行されたなんて。
澪は再び叫びそうになるのを堪え必死に笑顔を作った。
姫子のまぶたが薄く開いく。
その瞳から涙はすうっと流れて、透けて消えてしまいそうな
淡い面持ちをゆっくり緩め、姫子もまた微笑していた。
「姫子、もう大丈夫だよ、姫子」
大丈夫?
何が大丈夫なものか。
澪は粘液に全身を覆われ汚された親友を抱きしめ泣きじゃくる。
「ごめん、ごめん姫子」
繰り返し繰り返し、どうしていいかわからない澪の謝罪を
姫子は優しく澪の頭を撫でて
「…なんで、謝ってるの?」
と不思議そうに見つめている。
「澪! こいつ生きてる! 早くトドメさして!ひぃ!」
麗香の声だ。
澪の形相がありありと険しく変わる。
憤怒、憎悪、復讐心。
姫子の純潔を取り返すことはできないが、
次にすべき事は分かっている。
「姫子そこにいて、あのオバケ野郎をしっかりブチ殺してくるから」
澪は立ち上がって大罪を犯した醜い虫に向き直った。
倉庫の灯りを背にして表情は伺えなかったが、
殺意に満ちた眼光は、もう目標を反らさない。
行き場を失った怪虫は、のたのた周りを確認している。
電撃に混乱して、自分が何処にいるのか
分からなくなっているようだった。
好都合だ。

おまえが何処から何のために来たか知らないし知ろうとも思わない。
ただ、おまえは私の友達を強姦し深い傷を心に負わせた。
姫子がこれからの人生の中で、もう二度とおまえを思い出さないよう。
存在そのものを消し去ってやる!

バリッ!

澪は確かに仁王立ちして怪虫を見据えていたはずだった。
だが、一瞬のうちに視界の半分が床で覆われている。
耳鳴りがして何も聞こえない。
意識と関係なく顎が規則的にぴくぴくしていた。

何が起きたの?

姫子、
姫子逃げて、
私は急に動けなくなってしまった。
どうしてこんなことに・・・。

「あんた・・・何してんの?」
麗香は唖然として澪の体の後ろにふらふらと立つ姫子を眺めている。
姫子の手にはスタンガンが握られていた。

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