11.進化(その1)

意識がぼぅっと漂って、滲んだ視線の先には
醜い強姦者が寝息を立てている。
自分が何をされたのか、腹の底で動いているのが何なのか。
すこしでも冷静さを取り戻したら、心が砕けてしまいそうだった。
「ねぇ、澪ちゃん。
 どうして人は人を傷つけたり奪ったり
 悲しい殺し合いをするのか考えたことある?
 虫は同じ虫同士そうならないのにね。
 私たちは虫たちと何が違うのか・・・」
姫子はとりすまして澪の髪を撫でる。
ついさっきまで怯えていた少女のそれではない。
「私ね、こう思うんだ。
 虫たちは生まれながらにして自分がすべきことを知っているんじゃない?
 DNAの中にその情報が組み込まれているって言えば
 そうなのかもしれないけど、実はね、もっと…こう…なんて言うのかな。
 大きな【意志】みたいなものがあって、
 その【意志】に従ってるんじゃないかなって。
 きっと
 昔は人間にもその【意志】があったんだよ。
 そのころは私利私欲のために殺したり奪ったりすること無かったと思う」
姫子は寝そべり肉の薄い体を澪の背中に寄り添わせて、耳元で囁く。
「私たちは【意志】に見捨てられてしまったから、
 ううん、自ら放棄してしまった。
 気がつけば、もう自分が何をすればいいか、
 何をすべきで何をすべきじゃないのか、わからずに生まれてきた。
 だから、混沌と憎悪が渦巻くような、こんな
 人と人とが共食いする狂った世界になってしまったんじゃないかな。
 大きな【意志】の力は、人間を新しい生命の定義へ導こうとして
 失敗してしまったのかもしれない。
 だからね、もう一度、私たちが【意志】を授かって、
 それに従って人類を導いていかなきゃいけないんだよ」
姫子の細くしなやかな指先が、そっと澪の下腹部をさすって、
その感触の良さに澪と胎児がピクピク反応した。
「感じない?
 私はビンビン感じるよ。
 ここに新たに生まれた大きな【意志】の力を。
 きっとパパが虫と人との橋渡しをしてくれたんだ。
 この大きな虫たちは、理想郷への水先案内人。
 怒りも悲しみも憎しみも苦しみも嫉みも妬みも奪うも共殺しもない世界。
 一見残酷にみえる自然界の掟も、今の人の世みたいな不純はないよ。
 ただただ生きることに純粋で感動的な本来の生物の世界があるだけ。
 私たちはその故郷に戻れる最初の住人になるんだよ」
「・・・【意志】?・・・何? 姫子・・・」
朦朧として姫子が何を喋っているのか判然としない澪。
「まだ感じないの澪ちゃん。私は感じるよ。
 大きな【意志】が、私の生まれてきた理由をね、こう伝えてるの。
 虫を産めって♥
 私の命の続く限り虫の赤ちゃんを産み続けろって」
朧気だった澪の視線は「産み続けろ」の一言で我に返った。
「何言ってるの、姫子!
 何を言ってるのよ!
 大いなる【意志】?
 違う!
 あんなの、ただ図体のデカい下等生物じゃない!」
唐突に張り上げた澪の声に逡巡した姫子は、震えて涙をためる親友に
落胆したような悲哀の色をみせた。
「下等生物?
 ・・・澪ちゃん。前に話したでしょう。
 昆虫は勇猛果敢に進化へ挑んだ生物の先駆者なんだよ。
 危険を承知で陸へ上がり、何より先に空を飛んだんだ。
 何度となく絶滅と淘汰の試練をくぐり抜け繁栄した。
 今地球上の種族の約70%は昆虫って言われてる。
 どうしてこれほど繁栄できたと思う?
 昆虫に出来て人間に出来ないこと。
 それは進化。
 進化っていう未曾有の可能性。
 私たちは選ばれたんだよ。
 互いに憎み貶し蔑みながら地位や名誉や我欲とお金とに
 束縛されてきた私たちが、あるべき平和と繁栄を成就できる理想郷へ、
 標となれる偉大な役割を!」
あの慈愛に充ち満ちていた姫子が狂ってしまった。
姫子のあまりに聖なる精神は、神の使徒のように一方的輝きを放ち、
それは世俗に汚れた咎人にとって千の刃のごとく鋭い。

お互いの悲しい無理解と同時に、若干の冷静さを取り戻した麗香は、
このままではラチがあかないことを悟ってある一つの行動に至っていた。

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